もともと作家志望ではなかった知的探求心の強い女性が(p11)、作家として名をなすまでを描く。

 

 岩橋氏は、彌栄子の本来の気質は「学者向き」と指摘し(p21)、若いころ、といっても50代までの作品は「退屈」と評している(p60)

 とはいえ、彌栄子の勤勉ぶりは大変なもので、勉強とものを書くことを欠かさずに続けた(p61)

 

 日記に「家事のごたごた」は「排斥したい」と記し(p21)、夫の理解と実家の財力で女中を2人雇って「本を読むのが家庭生活」(p25)だった彼女は、法政大総長まで昇りつめた夫を、秘書、校閲者、雑務係として扱った(p63)

 そこまで<尽くした>夫だが、日記には夫への不満が多く書かれているという。

 とりわけ、大学での出世よりも学者として名をなすことを求めており(p67)、総長就任もたいして喜ばなっかたらしい。

 夫は、妻に”お尻を叩かれた”ことが功を奏したのか、後に能研究者として名を成すことになる。

 

 野上作品の「大石良雄」で描かれる、大石の妻りくを思い出す。

 

 夫没後は、軽井沢の山小屋と成城の自宅を往復して執筆活動を続け、息子たちの兵役逃れや大学教員としての出世(p95-97、165)、孫の生活(p121-122)、すべてをコントロールした。

 

 

 本書の面白さは、野上に対する客観的な、冷徹ともいえる人物評。

 勤勉さは先に触れたが、一方で彼女にはある種の「鈍感さ」があった(p22-24)

 また、自身の知的水準に対するプライドも非常に高かった(p181)。 

 東京が焼け野原だった戦争末期に、疎開先で豊かな食生活をしていることを随筆で書いたり、平塚らいてう、宇野千代がメンバーの会合を「ものを書く婦人ですらこのくらゐの談話(で 略)あんな会に出席する人たちの気持ちが分からない」と日記に書き(p177)、文壇から距離をとっていた。

 

 そんな彼女が唯一、認めたのが宮本百合子だった(第八章)。

 根っからの都会人だった宮本が、高い知性と教養を持ち、野上は彼女こそ自分と同等と考えていたらしい。

 

 また野上が実は面食いで、いわば元祖「三高」女性だった。

 しかし、夫没後に出会った<小柄>で気難しい田邊への尊敬が、やがて恋愛感情に変化したことは別に書いた。

 当時、彼女は60歳代から70歳代だったが、日記に「異性に対する牽引力はいくつになつても、生理的な激情にまで及び得ることを知つた」と書いている(p127)


 


 規則正しい生活(それは家事を放棄したことによるのだが)、生活環境の維持(それは夫や息子たちの支えによるのだが)で、長寿だった彼女は、実に70代になってから、代表作「迷路」「秀吉と利休」「森」を執筆する。

 

 

 天才肌ではなかったかもしれない。

 父親譲りの商才や政治力をもつ、ある種の俗っぽさもあったかもしれない(p95)

 しかし、怠惰を嫌い、生涯、勉強を続け、書くことをやめず、99歳の死ぬ、その日まで執筆をつづけた。

 

 「書くことによって、考えた以上のものが次第にペンに現はれる」と97歳で日記に記した女性(p209)。

 語学力を落とさないために翻訳を続けた女性(p18)

 漱石の名言「文学者として年をとれ」(p10)を体現した、大器晩成の女性。

 

 

 一生、勉強なんだなあと実感。

 今度は宮本百合子を読んでみたい。

 

 ・・・しかし、野上に対して「喰えないおばあさん」という印象が本書で濃厚になってしまい、これからの読書に影響しそう。

 

 

 

岩橋邦枝「評伝 野上彌栄子 迷路を抜けて森へ」 新潮社、東京、2011