ベルクソンの「物質と記憶」をわずか10ページで挫折し、ある人に勧められた作家さんの本を読むことに。

 林芙美子といえば「放浪記」だが、晩年の作品が面白そうだったので古書で購入。

 私はいつまで現実逃避をしているのだろう。仕事をしないと・・・・

 

 

 戦後の陰鬱な世相、混乱した道徳が描かれている。

 いずれの作品も老いがテーマではあるが、それだけではないように思えた。

 戦争に負けた国で、女性は男のことをどのように見ているか/見えているか。

 

 「晩菊」は、昔からの仲だった男女が年を経て出会うという内容で、粗筋そのものは野上弥生子の「茶料理」と同じ。 

 

 しかし、淡く美しい関係を描いた「茶料理」に対し、林芙美子の「晩菊」は卑俗さとどろっとした欲得づくの関係が描かれる。

 野上と林との個性の違いはもちろん、大正14年発表と昭和23年発表の違いも大きいのではないかと思う。

 

 「晩菊」「水仙」「松葉牡丹」、いずれにも感じるのが<男が役にたたない>ことだ。

 <生活力がない>といってもいいし、描かれる女性に比べて<逞しさに欠ける>といってもいい。

 

 特に「松葉牡丹」は若さと老いの対照を描いているように読めるが、それだけではないように思う。

 

 空襲の中、てる子は、堀に船を浮かべて乗ることを思い付きのように志村に話し、老いた彼を強引に誘って船に乗る。

 焼夷弾が落ちてきているタイミングならば、油が飛び散り水面が燃えて危険だが、爆撃機が通り過ぎて周囲が燃えているだけの状況なら水を張った堀は安全かもしれない。

 てる子は、そのようなことを”生き物の本能”として知っているかのようだ。

 

 てる子は精神を病んでいる。しかし、若さと旺盛な生命力を持つ。

 志村は避難先で出会った、開戦で日本から逃げ遅れた外国人たちのコミニュニティと接点を持ちながら、自分では何もせずに利益をもたらす株を自分の財産として持つ。

 終戦を迎える。

 外国人社会との接点は意味を失い、株の価値も無くなる。

 一方で、性/生への飽くなき欲求は、戦後の混乱を生き抜くのに、おそらくもっとも必要なものになるだろう。

 

 志村は、若者に苦労を押し付け、自身は手を汚さずに国際社会の中で利益を得ようと戦争を始めた当時の日本の男たちのようであり、てる子は、政治や理念、実益とも無縁で、男たちに屈辱的な仕打ちを受けた、しかしこれから逞しく生きていこうとする当時の女性たちのようである。

 

 

 「牛肉」(昭和24年発表)と「骨」(同年)は、双子のような作品ではないかと思う。

 発表年が同じで両者ともに引用から始まる。

今日はわが目をなぐさめるあの若草が

明日はまたわが身に生えて誰が見る?(ルバイヤート)  牛肉p187

 

なんじ兄弟の眼にある物屑(ちり)を見て

己が目にある梁木(うつばり)を感ぜざるは何ぞや(馬太伝)  骨p221  

 前者が男からみた戦後。

 後者が女性からみた戦後。

 

 <若草>だった女性に”一人前”にしてもらい、戦争を生き延びた男。

 時が経ち、再会することを思いたった彼は女性に金銭を渡そうとするが、ふと気が変わり、自分が牛”肉”を”味わう”ためにその金を使うことにする。

 

 戦争未亡人となった道子は、身を落とすことでしか生きていけなくなる。

 自身の”肉”を削るようにして得た金銭を、戦死して戻らなかった夫の骨壺――骨さえも帰ってこなかったので空――に入れる。

 戦争で男は何もしてくれなかったし、戦後も男は何の頼りにもならない。

 自分で空を満たしていくしかない。

 自分を支える<梁>に、自分がなるしかない。

 

 

 興味深いのが、この短編集のほとんどの登場人物が同じ場所にいないことである。

 時代的に、おおよそ満州と日本しか出てこないが、この2つの地域を往復している者ばかりでなのある。

 「白鷺」の主人公とみは、一時もじっとしていないし、その分、人生の起伏もあまりにも大きい。

 

 林芙美子自身も、まさに「放浪」する人だったのだろうか。

 

 

 

林芙美子「晩菊 水仙 白鷺」 講談社文芸文庫、東京、1992