「しょくしない」と打っても漢字変換されないのですね。

 「しきしない」まで打つと「式子内」に変換されますが、本当は「しょくしないしんのう」ですね。

 

 本書、萩原朔太郎風に読むことにしました(偉そうですが、要は自分勝手に読みたいだけ)

(略)注釈はない方が好い。(略)直感(ママ)で読む方が好い。(「恋愛名歌集」p100)

 とはいえ、高校時代の悪夢、”古語活用”を間違えることに大変に自信をもっておりますし、掛詞の知識は皆無なので、私の解釈は滅茶苦茶だと思います。

 せめて、私が調べたことや個人的意見は、<らしい><たぶん><思う>などを付けます。

 あくまで朔太郎の虎の威を借りまくることにします。

 

 

 

 本書によると、内親王の恋歌には、激しい感情の吐露と、「なよやかな情け」(p81)と2種類ある。

 

 前者の代表作は、朔太郎も激賞していた「玉の緒よ」。

 以下の歌もそうだと思います。

生きてもよ 明日まで人も つらかりじ この夕暮を 訪(と)はばとへかし  p80

 調べると「かし」は<きっと・・・ね>という強い念押しで、「つらし」は人が主語だと<つれない>という意味らしいです。

 で、私なりの読み。

 <私の生が明日までだとしたら、さすがのあなたさまもつれない態度はおとりにならないでしょう?きっと今晩はいらっしゃいますね、きっと、そうですよね>

しるべせよ 跡なき波に 漕ぐ舟の ゆくへもしらぬ 八重の潮風  p70

 道しるべせよ!が力強い。

 「八重の」は<遠くから>のという意味のようです。

 

 

 「なよやかな情け」系は以下。

さりともと まちし月日ぞ うつり行く 心の花の 色のまかせて p78

 「さり」は「然り」と表記するらしく、「去り」とかけていると勝手に解釈することにします。

 「うつり行く」は<場所の移動>と<心がうつりかわる>の意味しかないようで、手元の古語辞典(高校時代のもの・・・)に時間経過の意味は載っていません。

 <あなたは行ってしまわれた。そうであっても、あなたのことをお待ちしました。そして(長い)月日となりました。花が徐々にしおれてくように、あなたのお気持ちも、そのまま、変わっていってしまったのでしょうね>

 本当の解釈は<そのうちに訪れることもあろうと、待っていた月日は移り過ぎていく。あの人の心の花の色があせてゆくままに>。 

 

 

 私がいいなと思ったのは、以下のような歌。

あともなき 庭の浅茅に むすぼほれ 露の底なる 松虫の声 p36

 浅茅は「朝」をかけていると勝手に解釈。松虫は「待つ」をかけているのは本当(p37)

 「むずぼほる」は「結ぼほる」と表記し、<関係がある><からみつく><気が塞ぐ>と複数の意味があるようです。

 <荒れ果てた私の庭に、どなたかがいらした徴はない。夜明けを迎えても、どなたとも結ばれることのない私は、朝露に濡れて絡み合った草の中で鳴く松虫の声を聞きながら、どなたを待つともなく、ただただ悄然としています>

(本当の解釈:人が通った跡もない庭の浅茅いっぱいに置いた露の底で、悲しみに心をふさがれた松虫の声が聞こえてくる)

 

桐の葉も 踏み分けがたく なりにけり 必ず人を 待つとなけれど p42

 なんとなく意味が分かる歌。<待ってはいないけれど>と言いながら、誰かの来訪を待っているであろうところが切ないです。

 桐の花と葉は以下(Wikiから転載)

 夏の木だそうで、桐の葉が庭に落ちているということは、うら寂しい秋の歌。

 

          

たそがれの 萩の葉風に このごろの 訪(と)はぬならひを 打ち忘れつつ p60

 これもなんとなく分かる気がします。

 夕昏を見ながら、今日はいらっしっゃらないのかしら・・・あ、そうだった、もう、いらっしゃらないのだった・・・という哀切に満ちた歌(だと思います)。

忘れては うちなげかるる 夕べかな われのみしりて すぐる月日を  p66

 「打ち嘆く」で<ため息をつく>の意味だそうです。

 本書の本当の解釈では「しる」を<思う>の意味にとっているけれども、私は素直に<私だけは(あの方のことを、あれこれ)知っている>の方がいいような気がします。

夢にても みゆらんものを 嘆きつつ うつぬる宵の 袖のけしきは  p72

 「らん」で<であろう>という意味らしいです。

 本当の解釈は<夢でも見えるであろうもの>ですが、<夢でもお会いできるあの方だけれども>とした方が、私はいいかなと思うのですが。

 それから「うちぬ」は「打ち寝」で「ぬる」は「濡る」で、<眠る>と<袖を(涙で)濡らす>でかけていると思います。

我が恋は しる人もなし せく床の 涙もらすな 黄楊(つげ)のを枕  p68

「黄楊」は「告げ」もかけている(p69)

「せく」は「塞(せ)く」で、「せく床の涙」と「涙もらすな黄楊のを枕」で、”涙”で橋渡しをしている(たぶん)。

 つまり<涙をせき止めておくれ>と<涙のことを伝えないでくれ>(たぶん)。

 

 

 あまり窮屈に考えないで、自由に(自分勝手に、ともいう)解釈するのは、結構楽しいです。

 いわゆる「学問的に正しい」解釈ではないけれども、式子内親王の心情を想像したり、自分の気持ちも投影したりして、こっちの方がいいじゃない!と愉しむのも一つではと思ったりします(と、しつこいですが、朔太郎が言っていました)。

 

 まだ、続く。

 

 

 

平井啓子編「式子内親王」 笠間書店、東京、2011