古書屋で見つけられず新刊で購入。すいません、けちです。
不思議な構成。
人称が変わり、時間軸が不明瞭。
構成の緩さか、回想のもつ混乱を表現しているのか。
私の贔屓目で、後者ということで。
内容はすれ違いメロドラマですが、鴎外節で切なさ倍増。
私が好きなモーパッサン短編(「みれん」)と似たテイスト。
「あの時、違った選択をしていたら・・・」
ただ本作では、お玉とお父つぁんの交流(p38-39,52-58)にぐっときました。
鴎外、お玉さんを茉莉に、お玉のお父さんを自分に重ねてないか?
お玉はお父さんが45歳の時に生まれたという設定で(p28)、茉莉は鴎外が42歳の時に誕生しています。
「お玉、あれを見い」と言えないのが寂しい(p39)って、茉莉が結婚した後に鴎外が同じことを奥さんに言っていたはず。
(ある論文によれば、お玉さんは若いころの鴎外が囲っていた女性がモデルらしいです。でも関係性は、絶対に鴎外の父娘関係だと私は思います ← 頑固者)
受け身で生きてきたお玉さん。
あることで「急激に変化」する。
それは「望み」と先回りした「諦め」を伴う体験(p108-110)。
「直情」でなく「自分の言ったり為(し)たりする事を窃(ひそか)に観察」し「別に本心が」あるようになり、そのことに気付いて「ぞっと」する(p86)。
内省するようになり、本心と別な心の動きがあることにぞっとする。
「大人は汚い!」と思春期の子はよく言います。
あれって「私って、本当はこんななの!」と”怖がっている”のですね。
勉強になりました、鴎外先生。
茉莉さんが批判していた心情描写。
上手い下手でなく、謙抑的なのではないかと思います。
お常さんがお玉に気づくシーン。
婀娜、媚態などの直接的表現でなく「何物かが無い」(p69)。
却ってリアルな表現だし、お玉さんの佇まいが過度に”女性的”でないのも伝わる。
題名の雁。
<お玉の象徴>がよくある議論だそうです(解説p183-184)。
鴎外は独仏語を交えた文章を書くので試しに調べてみたら、驚きました。
雁はドイツ語でもGans(正確にはWildgans フランス語だとOie sauvage)。
ドイツ語と日本語で、意味も音もほぼ同じ。
ドイツと日本を往還する「舞姫」と対の作品?が、現時点の私の妄想。
で、考えたいのが紅雀。アジアにしかいないのだそうです。
こんな鳥
比べると
お玉さんの前 紅雀 ← 蛇が食べる ← 岡田が殺す 小僧が手伝う
弁天さまの前 雁 ← 岡田が殺す ← 岡田と、手伝った私と石原で食べる
アジアだけにいる鳥/ヨーロッパにもいる鳥/蛇
手伝う/殺される/食べられる
女性の前/神(?)の前
また妄想のネタが見つかりました。
あ、石原、加納治五郎がモデルだそうです(松井:東海学園女子短期大学紀要20、1985)。
あと「女が身を飾るのは(略)他の婦人たちのため」(注p161)とキルケゴールが書いているらしい(本文p60)。
目の前にいる女子が、丈の短いスカートを履いていたとしよう。
それは君たちのためではないんだよ、青年諸君。
森鴎外「雁」
430円+税
新潮文庫
ISBN 978-4-10-102001-3