磯野先生と伊藤先生のご著書はほぼ必ず拝読している。

 お二人とも、ご専門が違うのに、探求方法が共通している。 

 具体例から考え始める。

 

 

 

 第一部はリスク管理について。

 第一章は総論、第二章は抗血栓療法の医学的説明について。

 医学的リスクの説明にレトリックが用いられることに磯野先生は注目なさる。

 

 レトリックは一種の虚偽なのでソクラテスもプラトンも否定した。

 しかし「切実なものを正確に表現する」ともいえる(佐藤信夫 p53、58)。

 確かに譬えの方が本質に近い理解につながることはあると思う。

 

 さらに「レトリックこそ正しく怖がらせる力をもっているかもしれない」(p69)。

 

 

 第三章は狂牛病の例があげられる。

 当時、全頭検査の是非が論じられた(p76-79)。

 当時のある研究者。

 「(すべて)検査すれば安心というのは科学ではなく呪術」(p79)

 

 重要な問題提起と思ったのは以下。

 「『正しい理解』のもとに行われる啓蒙的情報提供が、リスクの実感を身体ではなく情報に依存した形に変えてゆく」(p81)

 

 別な表現。

 「情報に身体を寄り添わせ現実の実感を形作」ること(p84、87)。

 

 ”情報だけで実感と遊離した理解”があるのに対し”情報にレトリックを追加した体感を伴う理解”があるという指摘だと思う。

 レトリックは「想像力」とも言い換えられている(p68-70)。

 

 情報が大事なのは言うまでもない。

 しかし、ただ数などの情報だけ頭に入れても、それは適切な理解なのか。

 

 

 第四章はこの数年の流行り病について。

 報道の問題が指摘されるが、医学情報に「万が一」という表現が入ることについての是非。

 これは避けられないことが正しく指摘されている(p114-116)。

 医学に絶対などあり得ない。

  

 

 第二部はリスク管理からどのように自身を救済するか。

 第五章。

 多くの健康に関する著作で、石器時代や狩猟民族の例が比較対象になる。

 誰も見たことのない石器時代が科学的著作で持ちだされるのはなぜか。

 それは全てが平均であることが健康のレトリックになるから(p150-153)。

 しかし、もちろん「平均人」(p150)など存在しない。

 

 第六章。

 「平均人」の逆は「自分らしさ」。 

 磯野先生は事例から”常識に抗う”か”純粋な内発性に依る”と分類なさる(p163)。

 とはいえ、前者の場合は社会通念からの逸脱は許されない(p165-166)。

 ではどうするか。

 

 唸ったのがACP(advanced care planning)の問題(p165-177)。

 詳しくはここでは書かない。

 死は関係性という指摘のあと(p171-173)、「自分らしさ」も関係性というこれまた興味深い指摘(p176)。

 

 

 第七章。

 先の「平均人」についてさらなる議論。

 文化人類学的実例がとても面白い(p198-207)。

 磯野先生の結論はも唸った(p195-197)。

 最終章は時間論。

 

 

 

 私がもっとも本書の議論で惹かれたこと。

 私に欠けがちな点。

 

 「自分の体の感覚」を大事にすること。

 

 理屈で抽象的に考えることはできる。

 それを「わが身のこと」として感覚としてとらえられるか。

 

 不安を抽象的に抱くのでなく、私なら「胸のざわつき、軽い吐き気、重たくなる足」と感じること。

 達成感を、私なら「軽くなる体、働き始める頭、人に対する構えが解けて誰かと話したくなる不思議な衝動」と感じること。

 このようなことを大事にしたい。

 

 

 

 


 

磯野真穂「他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学」

990円(税込み)

集英社新書

ISBN 978-4-08-721198-6