何気なく手に取った本書。

 読み始めたら止まらず、あっという間の楽しい時間でした。

 

 ケア・ギバーなら必読です。

 

 

 

 まず伊藤先生の章。

 倫理学の第一人者で、私も本を一冊持っているピーター・シンガーの効果的利他主義について(p23-28)。

 昨今の北米の考え方と、それに影響受けまくりな若い人たちの思路を理解できました。

 

 功利主義といえば「最大多数の最大幸福」。

 これに「効果的」がついているのは数値化が重要視されているから。

 倫理では共感が重要ですが、それ<だけ>では遠い国にお住まいの方や、普段は意識しない問題にアプローチできない(p26)。

 なので、効果的利他主義では共感は退けられ、数値が重視される。

 すると、どうなるか?

 

 あるエリートさん。

 「貧困にあえぐ子どもたち100人の命を救う」が目標。

 で、<効果的>にそれを行うには?

 人助けになるけど給料が少ない仕事をしたり、その給料を一割寄付するより、高給取りになって半分寄付した方がいいと考えた。 

 で、株のトレーダーになった(p27-28)。

 ・・・・・・・・

 

 えー、私は違和感ありまくりですが、いかがでしょうか。

 まずは目の前で困っている人に手を伸ばすことが優先ではと愚考します。

 てか、目の前にいない人を助けるって、性根が悪い私にはただの万能感にしか思えません。

 それに抽象化したケアは、要は<投げ銭>でないでしょうか(←やっぱり性根が悪い)。

 

 以上の違和感を伊藤先生は「数字へのこだわりが問題」と喝破される(p33)。

 

 で、何でも数値化していいのかという議論がある(p35)と。

 て、ヤスパースがもう指摘していることですけど。

 本章で紹介されている数値化で利他的行動が失われた実例が興味深いので、ぜひお読みを(p36-41、44-46)。

 

 一つだけご紹介。

 学力格差をなくす法律がアメリカでできた。

 共通テストの結果が教員の昇給と関係する。まま、役所がやりそうな方法です。

 で、どうなったか。

 予想がつきませんか?

 

 そう、まず共通テストにない科目の授業が疎かになった。

 もっとひどいことに、学力が低い生徒を障害者枠にして算定適応外にした(!!)。

 本末転倒も甚だしいです。

 人の微妙な機微(やる気とか)は数値化できないし、してしまうと歪みが生じる。

 

 もう一点。 

 社会学者の山岸先生という方のお考え。

 <信頼>は不確実性があるにも<かかわらず>信じる、<安心>は不確実性は<ない>=<確実>と考えること(p49)。

 お?聞いたことあるぞ、<安心>安全。

 絶対に<確実なもの>なんてこの世にないですよ、どこかの知事。

 

 あと、最近名前をお見掛けするブレディみかこさんが相互扶助を「一種のアナキズム」と指摘されていると。

 これ、伊藤野枝さんを読むと首肯できます(p52-53)。

 

 さて、ケアとは。

 あらゆる仕事の本質で、数値化できないもの(p60-61)。

 

 「聞く」こと。「自分との違いを意識する」こと。「相手が想定外の行動をとる」のを受け入れること(p54-55)。

 「他者を気遣う」ことで「自分も変わる」(p55)もの。

 この辺りもヤスパースの考えとほぼ同じで参考になりました。

 

 

 

 第二章は、先の戦争を真っ当な保守は反対し、むしろ軍部・右翼の革新勢力が導いたというご著書(「保守と大東亜戦争」集英社新書)が面白かった中島岳志先生が御担当。

 

 「小僧の神様」やマルセル・モースの議論から贈与という利他行為の困難さが論じられます。

 贈与は、交換の要素がないと支配が入り込み(p75,80)、負債感という心理的問題も生じる(p83)。

 

 ご自身、インドで荷物運びを手伝ってくれた人に感謝したら変な顔をされた(インドでは手伝うのが当然らしい)、お子さんから「ありがとう」と言われて違和感を抱かれたご経験から、ある気づきが(p87-91)。

 「報われる、報われないの外部」にある「自然な行為」、「当たり前な行為」への返礼は違和感を生む(p91)。

 

 わかります。

 私も子供達から「ありがとう」と言われると心配になります(私に変に気を遣っていないかと)。

 

 さて、この章での拾い物。

 親鸞は、善行をなそうとしつつ見返りを求めている行為は自己愛であり、自ずと行うものと違うと述べていたのだそうです(p98-99)。

 まるっきりカント。ただカントは神を持ってこざるを得なかったけど。

 

 あと「無我の我」の意味。

 単純に「私をなくすこと」(どうやって??)と思っていましたが、「出会いで変容する私」という意味だそうです(p100)。

 これもヤスパース、てか、プルーストの自我論と同型。

 

 

 

 ついで若松英輔先生の章。

 仏教思想が中心に。

 

 仏教の利他の「他」は「仏のこと」で、「自分以外の他者」を意味しない。

 いわば「自他を超えた他」。

 なので、「他力は自分でしないという意味ではない。人と仏が二者のまま一になる」ことだそうです(p113)。

 西洋思想の他者論は日本で有効かという議論がありますが、仏教の他性は西洋なみに徹底しているのですね。

 

 利他を、最澄は「自己を忘れる」、空海は「自利と他利が二つある」とした(p114-115)ことから「不二」概念の説明に。

 不二は、二つでも一つでもない、「二つのままでつながっている」という意味だそうです(p11)。

 これはブランショと接続できそう。

 

 面白かったのが柳宗悦の話(p115-126)。

 彼の美の考え方(p118、121)、言語論(マラルメ、ヘーゲルと同じ!p119)も興味深いのですが、民藝論、読まなくてはと思いました。 

 モノは使われることに意味があり、眺められるだけでは美藝で、民藝や工藝でない(p122-126)。

 そして、利他の一回性(p130-131)が強調される。おお、またもヤスパースに近い。

 

 さらに宗悦は「無為」の重要性(p133-134)を説いていたのだそうです。

 これはブランショやジャン=リュック・ナンシーと比較できます。

 

 あと「見る」の古語「見ゆ」には、「不可視のものを感じる」という意味があったそうで(p139)、レヴィナス、ブランショと同型の議論。

 

 宗悦は日常品ばかり重視したと批判されたそうですが、「形のない」もの、言葉(方言)、歌、踊り、空間も重視していたのだそうです(p143-144)。

 他にも知ると識るの違い(p140)、宗悦は神的存在を「即如」(p141)と呼んだなど、滅茶苦茶勉強になりました。

 

 柳宗悦、勉強します!

 

 

 

 有名な国分功一郎先生が次章。

 もちろん中動態が議論のメイン。

 私的には、古代ギリシャには意志という概念がなかったこと、アーレントが、記憶が過去に対する精神的受容器官とすれば、意志が未来の精神的器官と考えていた、それはアリストテレス批判であったという議論が学びになりました。

 ご存知、アリストテレスは可能態の現実化が未来とした。

 でも、これだと未来は過去の単なる延長に過ぎなくなります(p157-162)。

 未来は、時間の流れや因果連関が「意志」によって切断されている必要がある。

 キルケゴールっぽいです。

 

 ちなみに意志概念は、アウグスティヌスやパウロが作ったのだそうです(p162)。

 うーん、やはりアーレントも勉強しないと。

 

 なお、アーレントについてハイデガーの影響を国分先生は指摘されていましたが、私的には絶対ヤスパースだと・・・(←贔屓目もしつこいとアレですね・・・)。

 

 国分先生の結論。

 本来、真の原因なんて分からないから因果を辿るときりがない。

 だから、<原因>として<主体の意志>を挿入し、意志をもつ<主体>に責任があるという倫理学の定型が出来上がった。

 しかし、本来は別の「責任概念と帰属概念」が「混同」され、利他で重要な責任問題が単純化されているのではないか(p164、174-177)。

 なるほどです。

 

 

 

 最後は作家の磯﨑憲一郎先生のご議論。

 もっぱら小説のお話ですが、「意図しない」ことの重要性です。

 これは自力(利自)になるなということですね。

 

 

 

 さて、読了し、自分は何のために仕事をしているのかなと、しばし考えました。  

 XXさんのため!みたいな熱量は私の柄ではないし押しつけがましい。

 

 中島先生が御指摘の「オートマティック」がぴったりなんですが(似たことを以前 ↓に書きました)、もう少し言語化したいと思います。

 

 うーん・・・・・一生、勉強だな・・・・・

 

 

 

 

 

「『利他』とは何か」  伊藤亜紗編

840円+税

集英社新書

ISBN 978-4-08-721158-0