私は知らなかったのだが、実存主義は「悪しき主観主義」という批判があるらしく、本書では、その主観主義批判への反批判を試みている。
第一章は主観と客観の問題。
ほぼ冒頭で「『自我』を人間の心の中心とする(略)考え方に、ヤスパースは反対であった」(p40)と、いきなり結論めいた指摘がされる。
ヤスパースは、がっちりと「私」という主観があって、「世界」という客観(対象)があるという見方を否定していた(p40)。
ヤスパースは人格から知能をわける。知能は作業するための道具だからだ(p41)。
そして、人格は欲動と感情の二つの系列に分かれるとする(p43-45)。
一方、この欲動を調整するのが意志である(p45)。
欲動で動かされている人格は、何事かを決めることを意志することで、何かをする、もしくはしない。
ところで、ヤスパースは元医師だったので、「私」のことを、まずは「意識」と考える。
また生命には感覚・知覚があるが、生命としての意識に入力されるのは、まずは感覚である。
なので、感覚で形成される<世界>が先にあり、そこに意識が向かう。それが「対象意識」となる(p46-47)。
ヤスパースの考えでは動物の意識はここまでだが、人間はまだ先がある。
人間の場合は、意識がその心自体に<曲げられ>、その時に「自我意識」「自我=わたし」が生まれる(p47)。
つまり、ヤスパースにとって意志と反省(その心への折り曲げ)は人間であることにとって重要な機能ということになる。
ちなみに、ヤスパースは、私と社会との界面を「性格Charakter」、その中に欲動と感情の「人格Personlichkeit」があるとした(p54)。
この辺、ほぼカントである。
対象があって、感性があって、悟性が始まる。
そしてカントは空間と時間があるのは、感性の形式として「そういうものだ=先験的とか超越的」とする。
ヤスパースも同じく、主観と客観が分裂する形式は「そういうもの」なのである。
ただしヤスパースは、本来は「人間と対象の間は明確に切れているのではなく一体化している」(p52)と考えている。
そして、本来の私、可能性としての私を、ヤスパースは「実存」と呼ぶ(p58)。
さらにヤスパースにとって実存は、主観性と客観性のバランスの中でおのずと明らかになるものなのである(p58)。
というわけで、偏った主観主義も、極端な客観主義も、ヤスパースは等しく退けている。
第二章は実存へと飛躍する契機となる限界状況と決断について(p71-142)。
この章で、ヤスパースの宿敵リッカート(本書の表記。一般的にはリッケルト)がヤスパースの思想を主観主義と批判したことについて触れられている。
リッケルトはヤスパースの哲学教授就任を邪魔したり、ヤスパースが深く敬愛したマックス・ウェーバーの悪口を言ったとされヤスパースの伝記では悪者である。
弟子が多くいて、派閥をつくるのが得意なタイプの学者さんだったらしい。
ヤスパースは、大学は一人で学問するところだと考えていたので相性が合わなかったようだ。
私もこういう人より、ヤスパースのような人になりたい。
リッケルトの批判。
松野先生によれば批判は2点。
世界観を「殻Gehause」としたヤスパースに対して、哲学的世界観を自然なものに例えるのは非合理的だという点(p119)、さらにヤスパースの世界観の議論が首尾一貫していないという点である(p126)。
リッケルトは殻でなく「家」だと主張していたらしく(p119-120)、私からすると、どっちでもいい気もするが、要するに悟性や理性で形成される人間の世界観は文明の作り出した「家」でなければだめということらしい。
しかし、ヤスパースにとって人間の世界観は、つらい極限的な経験、限界状況を経て変化し続ける、つまり古い殻を抜け出して新しい殻で生きていく、もっと言えば殻そのものさえも脱ぎ捨てて生きることが理想である、そのようなものだ。
だから、首尾一貫していないようにも見えよう。そもそも成長することを想定しているのだから。
私は、ヤスパースのこういう考え方が大好きなのだが、リッケルトは頭から否定する。
ところでリッケルトはいわゆる講壇哲学者とされるが、彼らにとって時間概念は二の次だった。
なぜなら真理は、かのプラトン以来、「永遠=無時間」だからだ。
ヤスパースもハイデガーもこれに反発し、ハイデガーは「存在と時間」を書いた。
第三章(p143-163)は包越者について。
この用語、非常にわかりにくい。
これがデリダとかドゥルーズだったら、もっと「かっこよく」て「洒落た」フレーズをひねりだすだろう。
雑駁にまとめると、超越的なもの(p145)、モノ自体や現象を超えた存在そのもの(p147)、要は神性から人格性を差し引いたもの。
経験的世界を超えた何かで、私も世界も包み込んでいるもの。
そして、この包越者が「私」と「世界」に分かれ、これらを結び付けるものが理性であるとされる(p156)。
ヤスパースの理性の定義は一般的なものと異なるので注意が必要である。
この章で面白いのは西田幾多郎のヤスパース批判である。
「時間的なるものは、矛盾的自己同一的に空間的でなければならない」が「ヤスペルスのいう世界と云ふのは」「時間的・空間的に、内在的・超越的に自己自身を限定する世界」「の如きものであらう」と指摘しているという(p151 順序を変更した)。
繰り返すが、ヤスパースは内在的にも超越的にも自己は限定されない。常に更新されるのだから。
また、別の西田の批判では「近頃もてはやされるヤスペルスの実存哲学と云ふもの」では、その「超越は時間的世界の根底に考へられるもので」「主観的自己の立場からと云ふを脱していない」(p147)とされている。
ヤスパースがもてはやされた時期があるのかという感動は横に置いて、西田を読んでいないので誤解している可能性が大きいのだが、西田的には空間と切り離された時間は、素朴な時間=主観的時間意識という批判だろうか?
確かヤスパースは時間を主観/客観という観点から論じていないが、経験的な世界を超えた何かに触れて私が本来の生き方を選択をした瞬間が「永遠」であるという時間なら論じている。
第四章が了解、第五章が交わりについてである。
私がヤスパースが大好きなのは、この交わりKommunikation概念があるためである。
この辺りの議論は宿題がいっぱいある。
しかし、ヤスパース関連の著作でこれだけリーダブルな本はないと思う。
読んでいて、とても楽しかった。
少し前、若手の哲学者の先生方の集いに参加した時に教えていただいたのだが、ヤスパースの見直しの動きがあるとのこと。
慶賀。慶賀。
松野さやか「ヤスパースの実存思想 主観主義の超克」
3600円+税 258ページ
京都大学学術出版会
ISBN 978-4-8140-0080-7