中年になると、ネット用語がわからない。

 あとがきに「バズる」という言葉が出てくるのだが、肯定的なのか否定的なのかさえも分からず。

 悲しいっす。

 

 もともと恥についてはもろもろ考えたくて、何冊か本を買い込んでいた。

 そこに、あの酒井順子さんが恥をタイトルにしたエッセイ。期待。

 

 日本人の恥意識については、一般的にはルース・ベネディクトの「菊と刀」が有名だが(p46-49)、本書では最近の酒井さんらしく、清少納言(「枕草子REMIX」ですでに論じられていたけど)、さらに紫式部、鴨長明にまで触れられており興味深い(p13-18, p49-54)。

 ただ、当時の京都の貴族社会はかなり狭い社交範囲だっただろうから、「恥」は対象の不明瞭な抽象的な情動でなく、「誰それに対して恥ずかしい」という具体的な感覚だったのではなかろうか。

 それが、日本人の場合、どうしてここまで抽象化されたのか不思議である。

 

 酒井さんが触れていらっしゃる平安時代までの貴族社会は、知識のひけらかしが「恥ずかしい」時代だった。

 でもこの恥意識、平和で、かつ、知的リソースへのアクセスが平等に開かれた社会(だから平安時代は貴族だけ)の自己愛の問題に過ぎないのではないか。

 なるほど。

 そういう意味では、酒井さんのおっしゃる通り現代の日本に通じる恥ずかしさなのかもしれない。 

 

 酒井さんが触れていらっしゃらない鎌倉時代以後幕末までの日本は、ほとんど武家社会、要は軍事政権が続くという、ちょっと不思議な歴史をたどった。

 軍人さん(お侍さん)にとっての「恥ずかしい」(=屈辱)は当然、負ける、というか、負けて以後、対戦相手からの無体な扱いを受け入れることだろう。これは場合によっては生死に関わるし、自分だけの問題ではなく奥さんや子供、もっと拡大して一族郎党にまで範囲が及び、己の自己愛だけでは済まない。

 この辺も日本人の恥意識も関連しそうと思いつつ、でも大半の日本人はお侍さんというよりも、農業や商業に従事していた訳で・・・・ということで、話題を戻す。

 

 本書の「恥ずかしさ」は内容が途中からギアチェンジする。

 冒頭は(~p15)「みっともなさ」、つまり「自分が」何を恥ずかしいと感じるか=自己愛の話だが、p16以後、「自己愛だだ漏れ状態」に「接した側」の戸惑いについて=他人の自己愛に接したときの居心地の悪さについてになる(実際、p78で「自分が良いと思って発していても、他人にとっては恥ずかしくてたまらない」という文章がある)。

 

 というわけで、私の読みたかったテーマと微妙に違ったのは残念。

 でも、最近のあるあるネタ(「感謝にテレない世代」p103-115は肯きました。確かにどうしたんでしょうね、やたら「お母さん/お父さんに感謝」する息子/娘と、それに感涙する親)と、おお、そこまでおっしゃるかネタ(「結婚相手」p196-205・・・・これ公に言語化していいのかなあ・・・)満載で、いつもの酒井節が炸裂です。

 「恥ずかしい言葉」(p67-78)なんて、精神年齢中学2年生の私的にはどストライク。

 

 しかし、このブログのような誰からも求められていないものを書いているワタクシからすると、本書を読むのは精神的に厳しい箇所もあった。

 以下の文章の”フェイスブック”をブログに置き換えると・・・・

 「自慢欲求を封印してきた中年にとって、フェイスブックは欲求を解放できる楽園」(p25)で、「フェイスブックは、初めて自由に自慢できる場を得たアマチュア達が、『他人からどう見られるか』を全く気にせずに、無邪気に欲求を発散できる無法地帯、となっていました」(p27)。そして「特に我々中年というのは、大人になってからネットやパソコンに接するようになりましたから(略)自分の欲望のままに自慢するので、やたら連投する人、思いの丈を長文に託す人」(p27)がいるという・・・・・・ああ、恥ずかしい・・・・ひけらかし野郎がここにおります・・・・・。

 

 ・・・・・えー、本書の感想をちょっとだけ。

 「善行を妨げるもの」(p153-163)に若干の異論。

 このエッセイ、理屈っぽい私だとカントさんの話なんぞに寄せて考えられる面白いテーマなのだが、それは話がずれるのでやめます。

 酒井さんが指摘されている善行の恥ずかしさは、周囲に対して善人であることをアピールをしているようで恥ずかしいということだと思う。事実、p161以後で「一人で善行ができるか」が問題視されているし。

 私も「良いことアピールが恥ずかしい」と思う方だが、「にも関わらず」「善行(に見えることを)する」ことがある。

 それは道徳意識からではない、自意識過剰で面倒な自己愛からくるものだ。

 これも「あるある」だと思うけど・・・・。

 

 本書の例を使うと、ベビーカーをうまく電車から降ろせないお母さんがいるとする。

 そういう場面に出くわすと、瞬間的に私も同じような状況を経験した時にとてつもなく「人目が痛くて」「恥ずかしかった」記憶が忽然と湧いてきて、即座に「あの恥ずかしさ」でいたたまれなくなる。

 それは共感とか同情ではないかと言われるかもしれないが、私の実感ではもっと反射的。

 「ああ、これって恥ずかしいよねー。あー、見てられない、はいはい、お母さん、さっさと行きましょう。はいはい」と手が出るのである。

 これは外からは善行に見えるかもしれない。

 でも、あくまで「自分が」居心地が悪くて、それを解消するために行っているので、困っている人を助けたいという気持ちではなく、まぎれもなく自己愛からの行動だと思う。

 要は「良い人アピールかも」という恥意識よりも、いたたまれなさという自分の不快を早く解消したい感情が勝るのである。

 こういうのって、ないですか?(私が変?)

 

 似たことが小学生の高学年の時からあったので、結構、プリミティブな感情ではないかと思っている(思い込んでいる)。

 何かの委員がなかなか決まらず、まだ委員をやっていない子が立たされた。

 わずか数人で、クラス全員から見つめられて、いかにも針のむしろ状態。そして、その中に私の好きな女の子がいた。

 居心地の悪そうな何とも言えない表情をしていた彼女を見て、どういう訳か私が恥ずかしくなって(もっと複雑な気持ちだったのだが言葉にできない)いたたまれなくなり、この状況から早く逃れたくて手を挙げてしまった。

 相手は当然、私がなぜ手を挙げたかなんぞ知らないし、ただこの状況を逃げ切ったとしか考えていない(そういう表情をしていた)くらい、私にも分かっており、自分でもバカみたいだと思った。

 思春期に入り、「青春ノイローゼ」(by みうらじゅん)の入口にいたので、心理学の本などで「自己愛」とか「ナルシシズム」などという言葉を覚え始めて、そういう言葉を使ってみたくて仕方なかった時期で、「ジコアイ、トカ、なるししずむ、トイフモノハ、ナント、メンドウナ、モノナノダロフ」と思ったことを覚えている(・・・思い続けて幾星霜・・・・・・)。

 あ、これ、酒井さんのお書きになった「若さという恥」につながる?

 

 若い人の自己愛的な行動への自己憐憫という恥しさ、あるいは無限後退の様相をみせる自己愛の恥ずかしさがこれだろうか。

 中年おやじになると、無限後退するほどの気力も、自己憐憫などという感情も摩耗して、ああ、面倒だなあという気持でさっさと行動してしまうのか?

  

 やっぱり、自己愛(とその無限後退)、自己犠牲と利得感情、共感、同情、感情伝染などと恥意識の関係は宿題。 

 

 

 最後。

 なんだか、しみじみとしてしまった文章。

 「『いいね!』の数の十倍、『嫌だね!』と思っている人もいる」(p28)

 

 そうでしょうね。

 ええ、ええ。そうでしょうとも。

 

 

 

酒井順子「センス・オブ・シェイム 恥の感覚」

文藝春秋     240ページ

1400円+税

ISBN 978-4-16-391070-3