連休があると仕事がたてこみ、却ってしんどい。

 ようやく通常運転になった気が。

 

 さて、5月15日と16日、日仏会館で行われる予定だったプルーストのシンポジウムにWEB参加しました。

 

 

 15日は午前中、仕事だったので、帰宅してすぐにPCを開いて参加。

 両日ともに15時から20時までの長丁場で、仕事と直接関係ないので、まったくの趣味で参加しましたが、本当に面白かったです。

 

 本来は、併行して絵画展、コンサートまで開催される予定だったのですが、時節柄、中止。

 残念・・・。

 

 WEBだとピンとこなかったのですが、参加者がなんと約400名だったそうです。

 日仏会館のあの狭い講堂では無理な人数。

 関東近圏にいないとなかなか参加できないし。

 WEBのアドヴァンテージですね。

 

 

 さて、シンポジウムの内容は、まさにプルーストの作品の多面性を味わえた講演揃い。

 文学はもとより、音楽、絵画、建築(建物だけでなく公園も)、街中のポスター、パリ万博の見世物、聖書、推理小説、ツーリズムと、ありとあらゆる面から検討され、どれもが興味深い、まったくはずれのないシンポジウムでした。

 

 圧巻だったのが、草稿についてのご講演。

 いずれの演者の先生も当たり前のように「カイエ なんとか(←番号)」と紹介なさっていたのですが、プルーストは「失われた時を求めて」を執筆した際にまずノートに書いていて、その膨大な草稿群のことらしい。

 で、ナンバリングされて、それ自体が研究材料になっている(!)。

 そのノートの中身もすっごい細かいのですが、有名な「繰り返し推敲した」の痕跡を実際に写真でみると、そのこだわりに驚くやら、呆れるやら、尊敬してしまうやら。

 また、プルーストは表現が視覚的ですが(ご本人も視覚で快を得る人だったことはブログでご紹介しました ↓)、ある絵画なり彫刻なりを小説の中で登場させようとすると、そのイラスト(へたくそでちょっと可愛い)を草稿に描き、そこに文章を書き連ねていたりします。

 確かに草稿も見飽きない。

 

 しかし、こんなに一つ一つの単語を丁寧に考えていた人の文章は、簡単に「読みました」ではなく、熟読しないといけませんねえ(←もう遅い)。

 たとえば、ある個所で定冠詞を3回も訂正している。

 leと書いて消して、l'と書いて消して、laと書いて消して、結局もとに戻っています。

 l'の時は続く単語が変更されているのですが、leかlaではほぼそのまま。

 これ、その前の文にある語があり、プルーストはその語の形容詞と関係させるか名詞にかけるかで迷ったようです。

 ということは、完成した文章、定冠詞の変化を意識しないと、どちらともとれる(敢えて)曖昧な表現になっているのでしょう。

 

 何かで読んだのですが、知人宛ての手紙の文末に「queを2回も使ってしまいました。すいません」と謝罪の文章を入れたらしい。

 関係代名詞を2回使ったら「文章としてダメ」という美的センスの持ち主なんですね。

 

 

 プルーストの「どうかしている」推敲跡は、以下の写真でもお分かりかと思います(今、読んでいる本の表紙)。

 これは手書きなのでカイエなのでしょうが、ぺージの上部に紙片を付けたし、「プルーストとシーニュ」の「と」の辺り、よーくご覧になると、横長の紙片が2、3枚、上から継ぎ足されています。

 草稿の段階はまだしも、校正後にも同じことをしており、なんと4回も内容を増やし、文章も変更している箇所が紹介されていました。

 印刷元泣かせです。

 

 

 プルーストの文章のことで面白かったエピソードが。

 ある日本人演者さんのご経験。

 フランスの大学で学位論文を書き、提出する前にフランス人の友人に文章をチェックしてもらった。

 そうしたら、プルーストの引用文まで推敲されていた(!)。

 

 フランス人でも、ある一定の教育を受けている方だと「この文章はおかしい/奇妙」と思われるのですね。

 何しろ1頁の中で、ピリオドが一回しか出てこない文章だったりしますから。

 

 

 

 他の講演では、当時、すでに流行遅れになっていた印象派と、なぜか再流行したアングルの絵の関係、「エステル記」と絡めた彫刻に関する作品中のある改変の意味についてなどが印象に残っています。

 それから音楽の話はやはり面白かった。

 

 「ソドムとゴモラⅠ」でカンブルメール侯爵夫人と若夫人が自身の趣味について議論し、語り手が時々茶々を入れるシーンがあります(集英社版単行本ならⅠp378-392。絵画の議論も面白い箇所です。ワグナー嫌いになったドビュッシーが、唯一晩年まで認めた「パルジファル」を彼の「ペレアスとメリザンド」と比較して登場人物に語らせていて(p385)、プル-ストの教養が垣間見られる箇所なのだそうです。・・・嫌味ですねえ)。

 そこの脚注で、執筆当時の20世紀初頭、ショパンは「古い」と見做されつつあったとあり、へーっと思ったのですが、講演でもこの「何が新しいと受け取られたか」を中心に論じられていました。

 で、おお!と思ったことが。

 

 「ちょっと前」はダサい(作中のショパンの扱い)、でも「すっごい昔」は一周まわってかっちょいいというのは、いつの世も同じらしく、1900年代のフランスでは、すでにラモーやリュリが見直されていたのだそうです。

 なんでもSchola Cantorumという学校があり、伝統的(国粋?)音楽教育に熱心で、そこが古楽復活運動の中心になった。

 で、<スコリスト対ドビュシスト論争(こちらはコンセルヴァトワールが牙城)>というのがあったそうな。

 プルーストはその流行の最中、ラモーのオペラの再演を観ていたらしいです。

 一方、「現代音楽」はいつの世も嫌われる。

 アルベルチーヌが「マノン」のアリアを歌っているのを、語り手がいやーな気持ちで聞いているシーン、確かにありました(「囚われの女」)。

 

 

 

 面白かったなあ。

 でもなあ。

 講演も絵画展もコンサートも、聴衆は黙っているではないですか。

 楽器演奏者さんたちだって、この1年で、いかに唾液が観客に飛ばないようにするか対策なさっていましたよね。

 でも、やっぱり中止になるのですね。

 

 

 印象的だったのが「オンラインで開けたのはいいのですが、廊下で話すとかちょっとした雑談ができないのが残念だ」とフランスの先生がおっしゃったことです。

 やっぱり海外の先生もそう思うんですね。

 

 シンポジウムでも学会でも何でもいいけど、演題が終わった後、「挙手して質問するほどではないけど、確認したい」と伺うとか、「さっきの話ですけど」とちょっとした情報交換をするのが、あのような場の大事な機能の一つですよね。

 何しろ、シンポジウムの語源、饗宴だし。

 

 

 人はただパンのみにて生くるにはあらず。

 そんなお高くとまった世界なんぞしらねえよ、人が亡くなっているんだからよ・・・というお考えをお持ちの方がいらっしゃるのは分かります。

 

 でも、フランクルの「夜と霧」にだって、あのような過酷な状況であっても(だからこそ)生き残るには、内面世界への糧が必要だったと書かれています。

 

 

 早く、事態が収束することを願うばかりです。