ある若い方が「古文や数学を勉強することに意味があるのか、無駄ではないか」という話をしていました。

 出た! 効率性の話。

 

 ちょっと嫌味な話が続くかもしれませんが、お付き合いいただける方は、最後までどうか。

 

 

 

 その番組。

 あれ?と思ったのが、議論の相手が古文や数学の学者さんだったことです。

 「え?少なくとも僕のような者は数学/古文のおかげで家族を養えているので、十分に役にたっていますけど、何か?」で議論を終えればいいのにぃーと思いましたが、先生方は一生懸命にお答えになっていました。

 途中で観るのをやめたので結論を知りませんが、改めて「俺って性格が悪いよなぁー」と自覚させられました。

 ・・・・てか、数学や古文が好きでない人はどうするかという議論だから、これって返事になっていないですね、はい、それは重々承知ですが、ほら、なんかねえ。

 

 

 

 角度を変えます。

 「何が役に立つか」という議論は、自分とって何が役に立つかを「現時点で(だいたい)分かっている」が前提になっています。

 つまり、「XXは意味なくねえ?」という方々は、将来、自分にとって何が(だいたい)役に立つか(フォースか何かの力を使って)「分かっている」ということになる。

 で、「これやっても無駄。コスパが悪い」って、「現時点で」やりたくないことを切り捨てられる。

 

 羨ましいなあ。

 私は「今」の時点で、「これから」何が役に立つかなんて、「だいたい」のレベルでもちっとも分かりません。

 だって若かった頃に必要に迫られてやったことが、今になって「ああ、こういう形で役に立つか!」なんて経験は山ほどあるし、むしろ「なんであの時、もっとこれをやっとかなかったかなあ」という後悔ばかりですから。

 スティーブ・ジョブスの、カリグラフィーの授業に潜り込んだことが、後々、Macのフォント開発に活きたという有名なあのスピーチ、この類のエピソードですよね。

 

 

 

 別の角度から。

 古文と数学がテーマだったので、たぶん高校入試には必要だけど将来的に(or 生きていくのに?)意味ないじゃーんという話ですよね。

 これは、まず高校がどういう場なのかをお考えいただく必要があるのではと。

 高校は、親が子どもを入れなくてはならない義務教育の範疇ではない、つまり、無理して行かなくてもいい場、もはや学問する場です(学問するについてはこの後に。あと、この論法だと、義務教育は生きていくのに最低限必要な<有用>なことを学ぶ場になる)。

 そもそも歴史的に高校の前身は大学予備門(大学に入るための学校)だし。

 

 で、大学。

 もちろん学問する場。

 学問とは分からないことを探求することで、探求のためには(違法でなく、倫理的学問的手続きが担保されれば)何でもします。

 何でもするというのは「手抜きをしない/無駄を省かない」と言い換えてもいい。

 

 実験が失敗した。

 あるいは、考えていたことと違う結果が出た。

 で、「自分のやっているテーマと別の結果だし、先に進まなければ、ああ、無駄なことしたなあ」と、何も考えずにデータや試料を捨ててしまっては、古くはペニシリン、新しくはiPS細胞は見つからなかった(てか、そんなことする学者はいないと思うけど)。

 

 何が申し上げたいかというと、学問する場は「あれが役にたたない、これが無駄」という発想の人には向かないということです。

 敢えて挑発的なことを書けば、大学には(そしてその予備門である高校も)「無駄がお嫌い」な方は無理をしてまでお越しいただかなくてもいい、その方がお互いのためではないかと・・・・。

 これは理系でも文系でも同じ(てか、文系の方が実用性、有用性から遠ざかる)。

 

 「いや、それではいいところに就職できない」

 それはお門違いで、少なくとも大学は職業訓練校ではない。

 

 それこそ「コスパ」を考えるのなら、可及的速やかに人脈を作り銀行に行って起業するか、あるいは人出不足の業界に就職し、お金儲けしていただくのが最短ルートです。

 その代わり、大学と高校をすっ飛ばすことで何をするかの選択肢は限られます。で、その中の最善を選ぶしかない。

 そして、現代日本の制度設定では、無駄を省くことのコストの一部に「選択肢が限られる」が含まれているので、そのリスクはお含みおきいただくてはならない。

 

 

 でか、本当は学問の話とかどうでもいいんですけど。

 最後に、もっとも申し上げたかったことを。

 

 そもそも「役にたつ/たたない」というのはどのような意味なのかです。

 

 

 

 

 で、やっと、読了した「収容所のプル-スト」(ジョゼフ・チャプスキ 共和国出版)の話に。

 本書、旧ソ連のKGBの前組織に第二次世界大戦末期に逮捕され、極寒の収容所で生き延びたポーランド画家さんの話です。

 彼はどう生き延びたか。

 

 収容所内で、有志達と自分達の好きなテーマを話し合った。

 彼はプルーストの作品について。

 ある人は建築学。ある人は音楽について。

 このような活動が彼らの生きる糧になっていた。

 

 生きるのに「役にたつ」とは、分かりやすい有用性とは異なる次元のことがある。

 

 

 

 なーんて書くと、件の方から「そういう極端な例ではなく、もっと日常のことですよ。頭悪いなあ」と言われそう。

 なので、今週の某週刊誌にあった理路をパクリます。

 

 厚労省のHPで調べると、50歳代男性の年間死亡者数は約5000人。

 365×24で割ると、1時間あたり0.57人。

 あまり意味のない数字ですが、素直に考えると2時間に1人亡くなっている計算です。

 

 つまり、私もこのブログを打った2時間後に、心筋梗塞あるいは交通事故で死んでいるかもしれません。

 

 私たちはそういう世界で生きている。

 だからこそ、逆説的ですが、「コスパ」とかケチなことを言わない方が、楽しく生きることができるのではないかなぁと愚考いたします。

 

 

 

 という訳で、本の紹介になっておらず、すいません。

 本書は内容紹介が難しいのです。

 チャプスキさんのノートがそのまま本になっているので。

 

 

 あと、最後までお説教をお読みいただいた方(そもそもこのブログ、誰が読んでくださっているのか?)、深謝申し上げます。

 

 もちろん、まったく反対意見という方もいらっしゃると思います。

 

 へー、うるせえオッサンがいるなあくらいで、ここは一つ、ご勘弁を

 

 

 

 

 

ジョゼフ・チャプスキ「収容所のプルースト」    岩津航訳

2500円+税

共和国出版

ISBN 978-4-9079-8642-1

 

 

Czapski J:Proust contre la dechence. Noir sur Blanc 1987