先日、仕事のために図書館に行ったら読みたい本が一冊も所蔵されておらず、借りるつもりのなかった本を大量に借りてしまいました。

 本書は、そのうちの一冊。

 

 ブラッサイさんって私は存じ上げなかったのですが、ルーマニア出身の写真家さんでヘンリー・ミラー、ジャコメッティなどと交流があったのだそうです。

 本書はプルーストと写真に関するエッセイです。

 

 

 プルースト、大変な写真マニアだったそうです(p26)。

 撮影する方ではないです。

 写真自体を集めるのが趣味だった。

 

 知人という知人に「写真をください」と手紙を書きまくり(p37)、それを自分で製本したアルバムにまとめ(ちょっときもい)、さらに人に見せるのが大好きだった(ちょっと迷惑)。

 「俳優や作家、芸術家とか有名な人たちの写真を見てほしいと思って」とプルーストから手製のアルバムを渡されたドーデ。

 戸惑いながら「あまり興味がもてない」というと、「プルーストはがっかりしたようだった」(p44)。

 なんだか目に浮かぶようです。

 

 自分が好きなものは、当然相手も好きに違いないと思ってしまう性格だったのでしょうね。

 あるいはプルースト自身が視覚に快楽を覚えるタイプだったのでしょうか。

 考えてみると、「スワン家のほうへ」でも「ソドムとゴモラ」でも「見出された時」でも、ある大事なシーンを語り手は<覗き見>しています。

 

 

 

 この本の前半の楽しみは、「失われた時を求めて」のモデルの人物が見ることができること。

 以下、本書から引用です。

 

 驚いたのが、シャルリュス男爵のモデル、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵(↓)。

 気取り屋な雰囲気はシャルリュスっぽいけど、小説での描写より男前です。

 

 

 あとスワン氏のモデルが、シャルル・アスという人物(↓)。

 なんてない「おじさん」なのが、なんか納得。

 

 

 私が一番好きな登場人物、サン・ルーのモデル、ベルトラン・ド・フェヌロンさん(↓)。

 ダンディーで、私のイメージ通り。 

 

 私の興味はスワン夫人(オデット)、ジルベルト、ゲルマント夫人、そしてアルベルチーヌのモデルです。

  

 スワン夫人はプルーストの大叔父の愛人、ロール・エマン(オデットも語り手の大叔父の愛人でした)。

 正直、「きれい!」ではないけど、プルーストが譬えていたボッティチェリの絵に描かれる、あの憂いを帯びた目が似ています。

 

 

 ジルベルトはマリ・ド・べナルダキという方。確かに美しい。

 もう少し意地悪な雰囲気かなと思いました。

 

 

 ブログの仕組みがわからんので、なぜかブログに拒否られたゲルマント夫人のモデルになった方の写真も掲載されていました。

 2人いらして、一人は顔立ちが、もう一人は醸し出す華やかな雰囲気がゲルマント夫人っぽいです。

 

 アルベルチーヌの直接の女性のモデルはいないらしく、てか、モデルは男でした。

 

 

 

 さて、驚き、自分の教養のなさを痛感して恥ずかしかったのが、「現実になったことのない過去」というフレーズについて。

 ロセッティの「存在し得たかも知れないが、存在しなかった者」という文章が元ネタだったのだそうです(p52-54)。

 

 レヴィナスが使い、プルーストも用いたこのフレーズ、可能性と不可能性のあわいというか、宙づり感のある文章で、十分に意味は分かっていませんが、なんだか私は惹かれます。

 

 

 そうだよなと思ったのが、「失われ時を求めて」全体が「現実と幻想のズレ」「母への愛」がテーマだというブラッサイの指摘(p87、p129)。

 

 ただ、「現実と理想のズレ」に、語り手が幻滅を覚えているというブラッサイさんの意見には、私は違う考え方ができるのではと思います。

 「ゲルマントのほうへ」だったと記憶していますが、「私」が現実と空想を一致させているシーンもあるからです。

 

 

 

 本書で、プルーストの考える「現実と幻想」「記憶」「母」を、フロイトと比較すると面白いと思いました。

 ちなみにプルーストはフロイトを読んだ形跡がないらしい(鈴木道彦先生のエッセイで読んだような)。

 

 プルーストは、知性も、記憶も、自我もあてにならないと考える。

 フロイトは悟性を信じ、記憶の想起を勧め、自我を「強化」すること(ただし晩年の考え方)を目指した。

 

 プル-ストにとって感性が重要で、記憶は現実を再認識するものでなく、創作するための方法である。

 フロイトにとって感性は人をだますもので、記憶の想起は自身を再認識する方法だった。

 

 プルーストは<意識できないこと>は「現実にはなかった」潜在的可能性まで含む。

 フロイトが「現実にあったが(つらくて)思い出せない(ださない)いこと」が<意識できない領域>にあると考えた。

 

 そして、プルーストの考え方は、今の私には、フロイトのそれよりも、とても魅力的に思えます。

 

 「現実ではない記憶」をどう扱うか。

 言いかえれば「現実にならなかった過去」をどう扱うか。

 

 端に記憶の誤認と考えるのではつまらない。

 そこに可能性を見出せると面白いと思うのですが・・・・・

 

 

 

 

 

 

ブラッサイ「プルースト/写真」   上田睦子訳

岩波書店

ISBN 4-00-024608-9

値段不明(図書館所蔵)

 

 

Brassai: Marcel Proust sous l'emprise de la photographie.  Gallimard, Paris, 1997