今年は、いろいろな意味で季節感の無い年でした。

 

 

 

 立木先生の「女は不死である」、ラカン女性論の格好の入門書。

 

 ただ、やはり難しい。

 たとえばヒステリーを「欲求と欲望にぶら下がっている」と表現なさるのですが、私の頭では理解が追いつきません(立木先生のご説明は明晰です)。

 端的に「<相手に求められること>を欲している」では駄目でしょうか(p147-164)

 

 大変に勉強になり刺激的だったのですが、一つだけ気になったのがデュラスの節(p165-194)

 勢い込んで話すラカンに対して、デュラスはかなり引いた反応、というより、はっきり言って冷淡な反応をしていたことが書かれていない。

 

 このラカンとデュラスの振る舞い自体が、男女間の理論と経験の断絶、あるいはラカンの理論を証明しているようで、私は可笑しかったのですが。

 

 

 本書で興味深かったのが、ある女性作家が書いたラカンの印象。

彼はミソジニーでもフェミニストでもないが、身を犠牲にする女たちに(略)強い魅惑を感じている(p112)

 オフィーリアを論じる箇所で簡単に触れられていてるだけです(p112)

 

 ラカンが、自己犠牲に女性性を見ているかもしれないという点こそ議論していただきたかったです(じゃあ、自分でやれという話ですが、生憎、分析家ではないし、それ以上に問題なのが、私にラカンを論じる能力がない)。

 

 私のあてにならない理解だとラカン(派)は「女性は男の作りあげた論理・理論以上の何かである」と主張しているのかなと思います。

 ただ、こういう考え方は、ある女性から聞いたことがある「あまり女を称揚する方向で論じられるのも迷惑だ(気持ち悪い、だったかも)」を思い出します。

 

 

 女性にとっての声、語りとは結局、何なのでしょうか。

 

 やはり、仕事の中で、自分で答えを探すしかない。

 とはいえ、経験だけでは独断的になるから、勉強もしないといけない。 

 

 

 今年は<臨床で女性を論じると、いつの間にか母性にすり替わる陥穽に気づいた>ことが大きかったかな。

 

 

 

 

 

立木康介「女は不死である ラカンと女たちの反哲学」

2700円+税

河出書房

ISBN 978-4-309-24981-0