仕事で参考にしようと思い、かなり前に購入し積読だった本。
面白かったところを。
-はインタビュアー、Dはデュラスの返事。
―あるインタヴューで、男性のエクリチュールと女性のエクリチュールを区別する明確な特徴に触れておられます。
D はるか昔から、きわめて内的で自然な関係が、女を沈黙、つまりみずからを知り、聴きとることに結びつけてきました。この関係が女のエクリチュールを、男のエクリチュールには欠けているあの真性さに導きます。男のエクリチュールの構造は、イデオロギー的な知、理論的な知に言及しすぎです。(p70)
D(略)女は自分の使う言葉のなかに、まったき沈黙のすべてを翻訳する、包含する。男のほうには、話さなければならないという緊急性がある。沈黙の力にはまったく耐えられないかのように。 (p132)
工藤先生は、19世紀のサロン文化(工藤先生によると当時はサロンと呼称しなかったらしい)で発せられる声Voixを重視なさっていた。
当時、女性たちの武器は声だった。
20世紀の作家デュラスは、女性であることを、逆に沈黙と結びつける。
ただし書き言葉の話なので工藤先生のご議論と単純に比較できない。
デュラスの表現を借りれば、男は語り(書き)過ぎる。そして、それは自分自身の具体的な体験や感情から出てきた言葉ではない。
しかし女性は、自分がどう感じ、どう考えているかに耳を傾け、そこを出発点に言葉を発する。
D 偉大なる精神は両性具有です。(p132)
注によると、コールリッジも同様のことを述べていたらしい。
工藤先生も同様の指摘をなさっていて、プルーストやコールリッジをあげていた。
D(略)同性愛者は自分の愛人以上に、同性愛を愛するのです。これが、文学・・・・プルーストを考えれば充分ですけれど・・・文学が同性への情熱を異性愛に変換しなければならなかった理由です。(略)このためロラン・バルトを偉大な作家とは考えられないのです。 (p124)
ほかに。
D 書くこと、それは物語を語ることではありません。物語を取り巻くものを語ること、物語のまわりにひとつ、またひとつと瞬間を作りながら進んでいくのです。(p61)
彼女の作品は、内容よりも形式が前景化し、語り手の唐突な回想やもの想いの記述が挿入されて本筋からずれることがある。
「瞬間」という表現に相応しく、加速度的に断片化していく文章もある。
もっとも私が知りたかったこと。
―(略)書くことの治癒力を主張されていますね。
D(略)わたしは自分を大衆化するために、自分自身を惨殺するために、そしてそのあと、自分の肩から重要性をおろすために書きます。(略)自分を自分自身から解放できるようになります。(p69)
まま、こうとしか表現できないか・・・やっぱり。
面白いと思ったのは「男はみんなホモセクシャルだ」というデュラスの意見。
D(略)男たちには情熱の可能性を究極まで生きる能力がない、と。自分と等しいものを理解する用意しかできていない。ひとりの男の生活における真のパートナー、ほんとうに心を打ち明けられる相手は、別のひとりの男でしかありえない。 (p123)
男のナルシシズムが痛烈に批判されていると思う。
ところで「ロル・V・シュタインの歓喜」に「歓喜」したラカンがデュラスとランデヴーを望んだらしく、その時の印象も書かれている(p54-55)。
痛快である。
個人的には「女性は私にはわからない(女性は暗黒大陸だ)」と正直にぼやいて、それ以上、理論化を無理にしなかったフロイトの方が誠実だと思う。
マルグリット・デュラス(聞き手 レオポルディーナ・パッロッタ・デッラ・トッレ) 北代美和子訳
「私はなぜ書くのか」
河出書房新社 222ページ
2200円+税
ISBN-10 4309206662