モーパッサンの半端ない負の力に惹かれて、中編も読んでみることに。
短編集は有名な「脂肪の塊」も含め、世間の酷薄さを身も蓋もなく描くので、お腹がいっぱいになります。
本書はサロンが舞台です。
サロンってこんな雰囲気なのね、と興味深かったです。
あと、これ、心理の学生さんにお勧めかも。
主人公は「高等遊民」(たぶん貴族。書いてありませんけど)のマリオル。
なんでもできてしまうけど、読みようによっては器用貧乏な人。
モーパッサンは、彼の言動が他人から<「自分が何者でもないのは、何者にもなりたくなかったからだ」と(略)見えた>と描写しています(p11)。
要するに、万能感を捨てきれていない人。
金持ちなので何者かになって働く必要がないということはありますが、金銭的なことは別にして、何者かになってもいいですよね。
てか、金持ちだからこそ、何者になるかの選択肢はむしろ広い。
なのに、そうしない。
おそらく、その気になれば、いつでも自分は何者かになれると思っているタイプ。
しかもそれを表に出さない、慎みある人として通っている(p10)。
しかし、ナルシシスティックな人に特有なことに、根底には過剰な傷つきやすさが隠れている。
相手のちょっとした言動に自分への否定的な気持ちを読む(時に深読みする、まれに誤解する)。
そのくせ、それを言葉にして相手ときちんと向き合わない。
おそらくそのような勇気がない(p132-134、170-172、176-177、208-209、217-218など)。
そして、物語の中盤に彼はやっと気付く。
自分が何もやり遂げていない。
何かに打ち込んでこなかった。
薄っすらとながら、根底に傷つくことへの恐れがあることにも(p214、255-256)。
さて、少々、先走りましたが、この物語は主人公のマリオルが友人に誘われ、ある夫人が開いているサロンに参加するところから始まります。
主催者はビュルヌ夫人。
サロンに参加できるかは主催者によって選別されるらしく(この小説では)、要は夫人に気に入られなくてはならない。
夫人が気に入る条件の一つは、ビュルヌ夫人を崇拝していること(p47、72、77)。
大変な自信家です。
なにしろ、自分は愛されて当然だと思っている(p31、49、174、185、197-198、201、293、296、300-301・・・・書ききれない!)。
物語の2/3は、マリオルさんがビュルヌ夫人に振り回される苦悩が描かれる。
前半のクライマックスシーンはモン=サン=ミッシェルが舞台。
ちょっとした観光気分になれます。
面白いのが、遠浅の海が引き潮の時は、昼で社交的シーン、あるいは愛の告白シーン(p82-93、102-113)。
登場人物が内省的になったり、恋愛感情で懊悩するのは夜で、満ち潮になっている(p94-100、113-115)。
昼夜の対比もあるのですが、「底が見えている」、つまり、自分の考えが「わかりきっている」(底fondに内容、限界という意味があるとフランス語辞書にありました)のと、反対に底が見えない/底がない(abisse=深い海、深淵)、つまり、自身でもよく分からない深みにはまり込んでいることが重ねられているように思います。
さて、やがて二人は深い関係に。
しかし、マリオルは満足感を得ることができない(p125、135)。
「心の琴線が(略)音が合わない」、それは仕方ないことだと考えている(p162)。
心の琴線の音が合わない、つまり感情を共有できないことが仕方がないとすると、彼女と交際する意味ってどこにあるのでしょう。
マリオルには、そもそもそこから問題なのがわかっていない。
ビュルヌ夫人。
彼女は<彼女なりの仕方で>彼を愛している。
相手が<わがままな自分を出しても平気な、気楽な存在である>という意味において(第二部第五章)。
逢引きの約束を1-2時間も遅刻する(p170)。
マリオルの賛辞も服従の誓いも彼女には「情熱を呼び起こさない」「反響しか起こさない」(p163-164)。
で、自己愛の権化であるビュルヌ夫人、やはり自分が<本当は何を望んでいるのか>をわかっていない(p94-99)。
例えば、彼女はこんなことを考える。
「優れた男たちが、機転も利かなければ特技もなく、特に美人ですらない、彼らにはふさわしくない娘に猛烈に惚れこんでしまうのはよくあることだ。なぜ、どうして?」(p96)。
今まで才能や特別な素質などを持っている男を相手にしてきたが、マリオルだけが何もない。
そのような男への感情を「恋と言えるのだろうか」と自問自答し、結果、「そうね、好きよ、ただ昂揚はないの(略)」と結論する(p99)。
彼女は<わかりやすい>、美とか、会話術とか、知識量とか、そのようなものがなければ人に価値があると思えない。
それは反転して自分に向かい<美を維持し、地位ある男たちに崇拝され、認められること>が彼女自身の価値になっている。
そんなものはいつか失われるのに(コレットが書いたテーマでしたhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12574674283.html、 https://ameblo.jp/lecture12/entry-12577412285.html?frm=theme)。
そして、彼女は所有によって結ばれる関係性しか理解できない。
愛を自分に向けている彼女は、悲しいことに、「これは恋なのか」と本来なら言語化できないような問いを立てざるをえない。
理由はわからないけど相手のことが頭から離れない、高揚感と喜び、苦しみと悲しみがないまぜになった奇妙な感情に翻弄されること(=愛/恋)が、端的にわからない。
私的にもっとも面白かったのが、第二部第五章。
マリオルとビュルヌ夫人、珍しく言葉で戦います。
ビュルヌ夫人:「あなたは私に『自分と同じになってくれ、自分と同じに考え、感じ、表現してくれ』と、こう叫ぶでしょう。でも無理なのよ(略)私は私でしかないの。神さまがお造りになったとおりの私を受け入れてくださらないといけないわ(略)」(p187)
マリオル:「(略)恋愛の兆しを感じたわけでしょう、自分と別の人間の生命も魂も肉体も混ぜ合わせたい、その人の中に溶け入りたい、その人を自分の中に取り込みたい、そういう実現しえない痛切な願いにほんの少し触れたんでしょう(略)」(p191)
ビュルヌ夫人の言っていることはその通りだと思います。しかし、それは「命令」すべきものではない。
マリオルの言っていることは、要はビュルヌ夫人が退けていることを執拗に求めているだけです。
二人の自己愛者が、自分の思い通りになれ、と主張しあっている。
そこには相手の心情を知りたいという切望も、相手がどうすれば満足してくれるかを考えている様子も、これっぽちもない。
さて、疲れ切ったマリオルはパリ郊外に引っ込む(第三部)。
しかし、夫人のことをあれこれ妄想しては、しつこくずーっと嫉妬し続ける。
ある時、都会の喧騒を避けてレストランの女中をしている少女と出会う(p251)。
その後、いろいろあって自宅のお手伝いさんにすることに。
もともとパリ出身の中流階級出なので、徐々にお嬢さんらしさを見せ始めるお手伝いさん(同部第二章)。
一生懸命、かいがいしく、真面目に、ご主人のお世話をする。
マリオル・ドゥ・ナルシストさん、「僕に恋しているな」と思い始める(p272)。
まま、ある危機的状況から救い出してくれた立派な風貌で年上の頼り甲斐がある(ようにみえる)男に、年頃のお嬢さんが恋心をいただくのは、ごく自然な成り行きでしょう。
問題は、いい年した男(37歳前後という設定です)側の行動です。
・・・・・嫌な予感がしますよね。
そのとーり!(by 児玉清)
「彼自身は、ごく穏やか愛着を感じていた(略)感謝もしていた(略 しかし)気晴らしになるものなら何でも弄ぶように、この生まれつつある恋情を弄んでいた(略)彼女に対して感じるのは(略)なんとなく惹かれて近づいていく、そういう関心だけで、それ以上のものはまるでない。彼女に惹きつけられる理由は何よりもまず(略)女を感じるからだった」(p274)
はい、女性の皆さん、怒るところです(てか、もう激怒されていますね)。
その後の第三章。
これはお読みください。
極めつけが最後の台詞です。
これぞ、モーパッサン!!
落ち葉ひろい的に。
「書くこと」の危険性(p69)。
書くことは気持ちを明確化しますが、書かれたものに感情が煽られてしまうという自家中毒のような現象が起きることがある。.
モーパッサンの女性観。
解説で訳者の笠間先生はミゾジニー的傾向を指摘されているのですが、私は必ずしもそうではないと思います。
P152は登場人物のキャラ設定でそう言わせただけなのか不明ですが、これはさすがにミソジニー丸出し。
なので、ここに書くのは控えます。
あとは、女性が謎であること、文中表現は過激ですが、謎であるが故に探求の対象であることも示唆されている(p164、147、151-152)。
そして女性は口頭は別にして文章では「言葉をこねくりまわす」ことや「文体でごまかさない」で、誠実に情緒性を表現できる(p181)。
最後に。
夫人の台詞。
「(略)よい夫というものは存在しませんし、存在のしようがありません(略)」(p300)
・・・ええ、ええ、そうでしょうとも。すいませんでしたね。
言われなくともわかってますとも。
モーパッサン「わたしたちの心」 笠間直穂子訳
840円+税
岩波文庫
ISBN 978-4-00-325514-8
Maupassant Gd: Notre coeur 1890