「軍帽」「小娘」「緑色の封蝋」「アルマンド」を掲載した短編集。
舞台はおおむね第二次大戦前後で、コレット晩年の作品。
コレットは女性の容色の衰えを描くのが本当にうまい。
たとえば「シェリ」の時と同じく、本書でも”首の皺”が何度も出てくる。
「軍帽」
コレットが20代のころに出会った、45歳の女性の恋物語という体裁。
フィクションかどうかは不明。
遅れて知った恋愛で、流行から外れ質素だった服装が美しくなり、表情や化粧も華やかになっていく(p49)。
しかし、ある一定以上の年齢になると、幸せになるとは残酷なもので、だんだんと女性は肥っていく(p77-)。
その描写の容赦のなさ。
「靴直しの尻」「華奢な骨格に肉が不均衡についている」(p81)「どっしりとした肩」(p90)
またコレットは、服装描写、肌の質感、匂いなど細やかに描くのだが、その視線の冷徹さ。
「恋の嘆きをどれもこれも同じ色に染めてしまう冗漫さ」「陳腐さ」(p96)。
この恋物語はどのように終わるか。
男のプライドにも、コレットは冷めた目を向けている。
「小娘」
49歳の男が、15歳の少女を追いかけまわすという、なかなか”危険”な話。
とはいえ「そのひとりだって汚したり、はらませたりしたことはない」(p165)と語り手の男は妙な自慢をしているので、単に駆け引きを楽しみたいだけのよう。
幼稚な贈り物をしたり、何でもない会話をしたりして、相手の反応を楽しんでいる。
しかし、これだって考えようによっては気持ち悪い。
心理描写はほとんどなく、風景描写や人物の言動だけでこの”恋愛物語”を描き切ってしまう。
少女の身体についての描写。
大した単語しか使っていないのに、書くのが憚れるような気がする巧みさ。
話が変わるが、この少女への視線に違和感を抱いたので調べてみると、コレットが活躍したころのベル・エポック時代は、観念性や高踏さから自然や人間性への回帰がうたわれ、少女ブームがあったらしい(横川昌子「コレットとベル・エポック」 学習院大学人文学科論集 181-189,1997 p186)。
その時に注目されたのが、一つは”植物”(横川p182)で、ミュッシャやウィリアム・モリスのデザインのあれ。
そして、もう一つが当時の文化を牽引した男性へのアンチとしての”女性“(横川p182)。
とりわけ文学、絵画で女性/女性性が注目された。
しかし、女性性といっても、19世紀までの女性像、”貞淑さ”でなく、19世紀末に流行して飽きられ始めていた”Femme fatale”でもない、純粋無垢さと官能性をもつ”少女”に注目が集まった(横川p186-187)。
女性や少女が文化の中心になった当時、同時に、1881年からフランスでは初等教育が無償化されて出版の自由が拡大。
いわゆる「書く女性」がフランスに登場するようになった。
コレットもその一人。
「緑色の封蝋」
書きっぷりはユーモラス、しかしよく考えるとどす黒い話という、コレットの創作技法に唸ってしまう作品。
締めの文章も、なんだかいたずらっぽいエッセイのよう。
風景や服装、お菓子の描写などを慎ましやかに描き、読み終わった瞬間は軽いエッセイでも読んだような気になるが、よくよく筋を考えると恐ろしい小説。
「アルマンド」
どうしてこんなにも奥手または意気地がない男の心理がコレットにはわかるのだろう。
ちょっとした挙動を、一々否定的にとらえては自己完結する。それも時にはアクロバティックな理路まで使って。
女性は男を待っている。しかし、時代的制約からか女性は男からのアクションを待つしかない。
コレットは女性サイドの内面描写をしないのだが、「待っている」ことが行動だけでわかるように描いている。
そして思わぬ大団円。
笑える・・・というか、コレットらしい底意地の悪さ。
コレット作品の特徴は、「男女は理解できない」「常に別れが運命づけられる」(横川 p195)なのだそうだが、「アルマンド」は”これから”な内容なので、ほほえましい。
気になった部分。
女性の場合、「恋愛の場合なら問題とならない年齢差も、友情となるとかなり敏感にひびく」(p23)。
この感じ、男にはわからない。
この短編集を読んで、エニシダ(マメ科で淡紅色の花をつけるのだそうで)がどんな香りがするのか、個人的に知りたくなった。
当時、アポリネールがなぜか女性筆名を使って女性作家の作品を酷評していたという(伊勢晃「アポリネールの女流文学批評」フランス研究46:21-32, 2012)。
曰く、「辛辣で皮肉に満ち、感情的で主観的」(p29)。
確かに。
ただ、それが魅力なのだが・・・・・。
コレット「軍帽」 弓削三男訳
2500円+税 296ページ
文遊社
ISBN 978-4-89254-111-4
Colette SG: Le Kepi