ヤスパース。

 片方は残り1/3です。がんばった、おれ!

 でも、もう一方は、まだ半分。がんばれ、おれ!

 

 ヤスパース読解が佳境に入って片手間読書がお留守になり(片手間だったらするなという突っ込みは無しで)、最近、読み終わったのは、モーパッサンとゾラの短編集だけ。

 2冊とも読後にどんよーりとした気持ちになり、別の本をお口直しにと思って手にしたのが「猫町」。

 

 というか、本当はサリンジャーの「フラニ―とゾーイ―(ズーイ)」を再読しようと思っていました。

 好きすぎて翻訳、2冊持っているくらい。

 

 というのも、佐藤優さんと中村うさぎさんの「聖書を語る」(前著「聖書を読む」https://ameblo.jp/lecture12/entry-12594868185.htmlが面白かったので古本屋でゲット)を読んでいたら、聖書談義もそこそこにサリンジャーの「フラニ―とゾーイ」が出てきて、久しぶりに読みたくなったのです。

 

 

 ちなみに「聖書を語る」ですが、聖書の話は1/3程度、あとは震災直後の対談のためか災厄について、それとなぜかサリンジャーと村上春樹の話になっています。

 村上春樹ファンの方にはお勧めかも。私は一冊も読んでいないのでちんぷんかんぷんでした。

 あと中村うさぎさんの「エヴァンゲリオン」論(テレビよりも映画版のよう?)も読めますが、独創的な議論かどうか、これまたエヴァンゲリオンに関心のない私にはわかりませんでした。

 ご関心のある向きはどうぞ。

 

 本書で面白かったのが、国家総動員法の本来の法的意味合い(p199-200)。

 驚きました。

 確かに調べてみると、この法律に反対したのは保守派だったそうなので、なるほどと納得。

 

 それと中村さんが聖書で泣いてしまうという箇所について(p34)。

 ああ、わかる、わかる!!

 私も、あのシーンがマタイ受難曲で流れると、演奏によっては号泣します。

 

 全然関係ないけど、韓国映画の「コクソン」で、明らかにこれを示唆するシーンが出てきますね。

 私は途中まであの映画の意味を今一つつかみかねていたのですが、後半のあるシーン(鶏が鳴くんです、夜だけど。何回鳴くかはご賢察の通りです)で、「ああ、そういう映画・・・」と思い返しました。

 まま、それはともかく。

 

 てか、なぜ「猫町」かというと、サリンジャーは昔の新潮文庫のものなので文字フォントが小さくて老眼にはきついなあ・・・と一瞬逡巡したら、横に「猫町」があって、「あれ、こんなの持っていたっけ」と読み始めてしまいました。

 

 なので、サリンジャーは読んだら、また今度。

 ちょっとだけ触れれば、大好きな「ナイン・ストーリーズ」なら、「コネティカットのひょこひょこおじさん」と「笑い男」が傑作だと思っております。

 高校生の時、読むたびに何回泣いたことか(← 文系オタクなので、ナイーブで脆弱でバカなんです)。

 

 「フライ―とゾーイー」は、私も中村さんと同じ意見で、断然「フラニ―」が素晴らしい。

 フラニ―の気持ちとずれた話を延々と自己愛的にするボーイフレンド、そしてフラニ―は心ここにあらずであることを、ほぼ外面描写だけで描くという、すごいぞ、サリンジャーな作品。

 佐藤さんによると、「ゾーイ―」を理解するにはロシア正教の知識がある程度必要だそうです。

 そうか、そうか。だから高校生の私にはわかんなかったんだ・・・・と、物分かりの悪さを棚に上げる言い訳ができたことだし、また再読したいと思っております。

 

 

 

 

 で、「猫町」。

 これ、いつ買ったのかまったく思い出せない。奧付をみると1997年。

 私が20代のころだけど、おかしいなあ、何で買ったのかなあ。

 

 

 しかし、一読、大変に気に入りました。

 なにがって、文章が、です。

 

 いろいろ調べると、朔太郎さんは幻想的な作風あるいは作品を書く詩人として知られているのですね(すいません、しょせんオタクな私は教養がないので、朔太郎、これしか読んでないのです・・・)、泉鏡花などと比較されています。

 

 で、朔太郎の研究論文をあれこれ探しましたが、基本的には内容やテーマを論じているものが多く(たとえば、都築賢一:山猫と蜂電灯 国文学研究 121:56-67、1997、 佐藤洋一:朔太郎詩のイメージの特質―「ズレ」と「空間性」 国語科教育 36-83-90,1989など。PDFで読めます)、幻想的な・・・とか現実離れした・・・とか何のメタファーか・・・・とか、そういう議論です。

 確かに内容的にはそうだよなと思います。

 まま、鏡花の方が艶っぽいけど。

 

 

 でも、繰り返しますが、私がしびれたのは文体で、どことなく漂う哲学臭です。

 

 そもそもショーペンハウアーを引用していますが、それ以外に「理性」「理知」「実在性」「直覚(いわゆる直観Anschauungのことでしょうか?)」、てか「メタフィジック」って言葉出てくるし(p20)。

 ニーチェも出てきます(p71)。

 

 描写されていることはぼんやりとした曖昧な世界なのに、言葉がかちっとしている。この対比が気持ちいいい。

 さらにさすが詩人だと思ったのが、硬い単語を使っても文章全体はリズミカルで読みやすい。

 すごいですね。


 

 たとえば、「常に町の空気と調和し、周囲との対比と均斉を失わないよう、デリケートな注意をせねばならない。町全体が一つの玻璃で構成されている、危険な毀れやすい建物みたいであった、ちょっとしたバランスを失っても、家全体が崩壊して、硝子が粉々に砕けてしまう」(p24)。

 あと、「モラルの体熱。考へる葦のをののき。無限への思慕。エロスへの切ない祈祷」「ああ、それが『精神』という名で呼ばれた、私の失はれた追憶だった」とか、「肉体は(略)物質と細胞で組織され(略)無機物に抗争しながら、悲壮に悩んで生き長らへ(略)」とか(p80)。

 とにかく抽象語が多い。

 で、なんかかっこよくないですか?

 しかも気持ちいいです(少なくとも私は)。

 硬い単語の合間に「みたい」といった緩い言葉使いをしているあたりも面白い。この文脈だと「のように」とか「の如く」が来ますよね。

 ちなみに町の張りつめた雰囲気を描いた文章は、そのあとも「微妙な数理によって」などの単語が出てきます。

 

 朔太郎、口語自由体の詩人ということになっていますが、こんな言葉使いで「話す」人いませんよ。

 

 

 そりゃあ確かに「町の空気と調和せしむるに、周囲との対比、さらには均斉を失わせんと、繊細なる注意を要すべきなり」なんかではないですよ。

 でも、たとえば「当課の人間関係を構築するうえでさあ、微妙な数理、言い換えるならば均斉と調和、そのような観点から、欠損あるいは毀損することのない関係性を考究するという制約性が、現時点であるよね」とか言う人います?(いらっしゃったら、すいません)

 普通は「うちの課の人間関係って、マジ、メンド―じゃない?でもさー、ごちゃごちゃするのもメンド―だしさー。どうすればいいと思う?」「そうっすね!先輩の言う通りっす!」「おまえ、そこ、<おっしゃる通り>だろ?」「そうっすね!先輩の言う通りっす!」「だからさ・・・」ですよね(←  えー、ちょっとバカにしてますね、すいません)。

 

 

 

 あと内容やテーマに触れれば、少なくとも「猫町」収載の作品群は、これ以上ないほどの「取り返しのつかなさ」または「取り返しがつかないことへの不安」に満ち溢れている。

 

 

 たとえば、「自殺の恐ろしさ」(p65-66)は、自殺予防教育に使えそうな内容。

 「田舎の時計」(p56-58)は、私が好きで何度か触れているラフカディオ・ハーンのエッセイhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12494273916.html?frm=theme、 https://ameblo.jp/lecture12/entry-12597097000.htmlの対極にあるような内容です。

 <不滅の先祖>(p57)の意味合いがまったく逆。

 私は基本「団地住まい」だったのでこういう雰囲気がわからないのですが、わかる人にはわかるのでしょうね。

 

 「老年と人生」というエッセイも、なんか昭和初期ぽくていいです(p104-117)。

 老いると楽なんだけど、どこか楽しみがないって。

 ・・・・どうしてかっていうと、ざっくり言えば性的欲求の低下・・・って、ありゃ、思春期心性そのままじゃないすか。

 そんなに性に振り回されなくても。

 

 あ、でも、確か朔太郎さん、奥さんが2人いらしたんじゃなかったけ?

 おやおやおや?

 

 

 今度は、「月に吠える」も読んでみます。

 


 

 

 

佐藤優、中村うさぎ「聖書を語る」

580円+税

文春文庫

ISBN 978-4-16-790018-2

 

 

萩原朔太郎「猫町 他十七編」

410円+税

岩波文庫

ISBN 4-00-310623-7