哲学者バートランド・ラッセルをして、「ほんとうに好ましく」「美しい」と言わしめた日本人女性(p186)。

 伊藤野枝。 

 大杉栄のパートナーにして、甘粕大尉に殺されたアナキスト。

 

 本書を読むと、伊藤のただならぬ生命力に、ただただ感嘆。

 

 幼いころ、近くの島までちょこちょこ泳いで渡っていたという野枝。

 作者が地元を訪れて海辺から見える島を指さし、「あそこまで泳げるのですか」と尋ねると、地元の人、「うん、死ぬよ」(p7)・・・・・。

 

 まったく働かないお父さんと一生懸命働いて家計を支えるお母さんのもと、極貧生活の中で、壁に貼ってあった古新聞を読みふけり(p6-10)、学ぶきっかけを得てからは夢中で本を読み漁った。

 女の子としてもっとも楽しい時期、髪の毛がぼさぼさで「シラミを飼ってる」などと噂されても平気で(p26)、勉強とスポーツに夢中になり、自分が正しくないと思ったことには相手が教師であろうが、堂々と正論をはいて反論する(p15-17)。

 

 

 最初の愛人はダダイストの辻潤。

 辻は英語教師として野枝の前に登場。

 貧相な容貌で「西洋乞食」と女学生たちに言われていたが、授業では突然、オルガンを弾きだしたり、英語の授業なのに樋口一葉や国木田独歩を語りだしたりしたという(p28-29)。

 そんな自由で知的な雰囲気に、野枝はすぐに恋におちた・・・ではなく、辻の方が野枝に恋した。

  

 面白いのが辻潤の生活が全然ダダイストでないこと。

 おかしいなあと読み進めていると、野枝と同居してから辻がだんだん「何もしなくなり」、「ダダイスト辻潤が誕生した」(p39)

 ・・・・

 その後も、望まぬ結婚をさせられそうになると、とんでもない行動力と周囲の迷惑を顧みない自己中心性を発揮して、無事に破談に成功したり(p47)、やはり尋常ではない生命力。

 

 そんな時に平塚らいてうと出会う。

 そして、身重になった平塚の代わりに、野枝が「青踏」を引き継いだ(p77)。

 知りませんでした。

 「第二期」青鞜(1915年以後)は伊藤野枝のものだったのですね。

 その時の編集方針がかっこいい。

 「無規則、無方針、無主張無主義」(p77)

 なんでも書き、徹底して議論しろと。

 

 その時に主な論争になったのが、貞操、堕胎、廃娼について(p78-91)。

 赤子をおんぶしながら編集に精を出し、子がおしっこすれば畳を新聞紙でちゃっと拭く、うんちをすれば庭にぽいと投げ捨てる・・・必死で頑張っていた野枝の前に、大杉が現れる(p102)。

 

 大杉は軍人一家に生まれ、自身も軍人を目指していた。

 知的で教養があるけれども腕っぷしも強い、青白い文学青年ではない背の高い美男子だった(都築忠七:大杉栄 一橋論叢47:514-531, 1962、p515)。

 都築論文によれば、大杉は軍人として将来を嘱望されていたようですが、BL的ないろいろなことがあって、やむを得ず上京。そこで、貧富の差を目の当たりにして労働争議に目覚めたのだそう(p515)。

 複数の外国語を学び、主にベルクソンやニーチェの影響を受けた(p512)。

 大杉の主張は「生の拡張」(p520-525)だそうですが、確かに「生の躍動」に似ている。

 さらにサンディカリズムの影響を受け、アナキズムとテロリズムへと近づいた(p525)。

 

 

 ところで私がわからないのは、他人に支配されず自律(自立)して生きる、労働者が自分でものごとを解決することが、どうしてテロリズムと結びつくかです。

 都築論文ではこの辺の理路がわかりません(p525)。

 前者は「生き方」ですが、後者は「手段」です。

 ある生き方を実現する手段としてテロリズムを選ぶか否かということです。

 自力で生きる=人様に迷惑をかけていいではないのに。

 

 アナキストといえばプルードンですが、彼は連合主義を掲げていたそうですが、「暴力で奪われない所有権の不可侵性とその権利の乱用の禁止」を目指したのだそうです(金山準:神の主張と人間の運命 政治思想研究16:206-237, 2016 p231)。

 「(他人に)暴力で奪われない」をひっくり返せば「自らも他人の所有権を暴力で奪わない」ということですれども・・・・わからん。

 

 

 話を大杉に戻して、1912年前後から生の拡張を主張していたようですが、その権化のような人が目の前に現れたわけです。

 大杉は1917年からテロリズムへ向かい始めますが、その1年ほど前から野枝と同居しています(本書p102、都築p525)。

 自身の理論を机上の空論と思い、そこから転回したのかもしれません。

 もしそうだとすると、二人の出会いは本当に良かったのだろうかと、考え込んでしまいます。

 

 

 野枝に話を戻します。

 その後、彼女もアナキズムに染まっていくのですが、その主張は暴力性を感じない。なので、読んでいて、納得感がある。

 

 たとえば、当時の恋愛観や結婚観に対して、互いに(というか、当時は妻が夫に)同化できないのにそれを命じていないかという批判(p157ー160)。

 理解ならばともかく(それも難しいですが)、同化は己を無くすことではないか!

 妻が夫とまったく同じ考えや価値観を持つ必要はない。

 もちろん、夫が妻と、子供と親だって、同じである必要もない。

 

 面白いのが、性について。

 性差とはフレンドシップだと喝破します(p163)。

 かっこいい。

 「要するに人と人でしょ?」と。

 

 共同体について。

 野枝の表現だと集団ですが、それには中心がない。

 でも近接している。そして、一つ一つは異なる個性をもつ。

 だから機械なのだという主張(p165)。

 

 線形的因果性でなく異質性が担保される、しかし相互依存性はある、そのような永遠の運動をする欲動を機械といったフランスのエライ人がいました。

 あるいは無頭の共同体を主張したエライ人も。

 言い回しや発想に共通点を感じます。

 

 私が一番しびれたのが野枝のアナキズムの定義または理想の姿(p192)。

 アナキズムはもちろん無秩序のことではない。

 限りなく小さい政府に分けるということ。

 野枝の定義は、すごく地に足ついています。

  

 

 野枝の生き方と思想の面白さにあっという間に読み終わりました。

 能町さんもお辛い出来事に逢った時、本書をお読みになったと書いていらっしゃいましたhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12576286415.html

 女性は元気をもらえる本かもしれません。

 

 

 かっこよかったなあ。

 あ、でも近くにいたら、ちょっと困るな。

 

 

 

 

栗原康「村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」

1120円+税   192ページ

岩波現代文庫

ISBN 978-4-00-602316-4