人間はなぜ生まれたのか?あなたは地の塩?ドイツのお話面白い! | ほとんどの日本人が知らない世界一古い書物の預言。世界中の人に向けて書かれた預言

ほとんどの日本人が知らない世界一古い書物の預言。世界中の人に向けて書かれた預言

旧約聖書の中には人類史の大きな秘密が隠されており、新約聖書の最後の書の中には地球が疫病や地震や戦争で混乱すること、逃れるにはどうしたらよいか書かれています。心も身体も健康に、みんなでサバイバル目指しませんか?

ある牧師さんの説教から

世の中のすべてのものは、どんなに小さな存在であったとしても、それぞれの存在の目的があります。器は食品を保存するために作られ、服は着るために作られています。本は読むために用いられ、自動車は乗るために作られたものです。では人間の存在目的は果たして何でしょうか? なぜ人は創造されたのでしょうか?
聖書は、人間は神様の栄光のために創造されたと明らかにしています。
「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。 わたしは彼らをわが栄光のために創造し、 これを造り、これを仕立てた」。」(イザヤ43:7)。

この御言葉は、私たちが神様の栄光、すなわち光を反射する存在として造られたという意味です。ところが、この御言葉は、一歩間違うと、なにか私達は神様の栄光を満たすための消耗品のようで、使用された後は、結局なくなるしかない存在だと誤解しやすい聖句ですね。しかし、それは神様の「栄光」とはいったい何なのかをよく分かっていないために、そのような結論になるのです。
出エジプト記33章を見てみると、モーセが神様の栄光を示してくださいと要請する場面が出てきます。
「モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。 主は言われた、『わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ』」(出エ33:18,19)。

モーセが神様の栄光を見せてくださいと言ったら、神様は、御名と神様の属性、神様の性質がどんなものかについて語られました。また続いて、より具体的に、神様の栄光とは何なのかについて宣言されます。

「ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。 主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」(出34:5,6)。

ここで具体的にご自身がどのような存在であるかについて、さらに説明されたのです。サッカー選手はゴールを決めたときに栄光を受け、体操選手は完璧な着地をしたとき栄光を受けますね。また役者は素晴らしい演技をしたとき栄光を受けます。それでは、神様はいったいどんな時に栄光を受けられるのでしょうか?

ここからはヒロばあちゃんの意見。
神が自分たちに似せて創ったという人間が、神の栄光を反映させることにより(つまり憐れみ深く、恵み深く、愛のある人になる)神に栄光をもたらせますよね。

海の塩分は何%あるのでしょうか。
この塩のお陰で海は腐敗しませんね。
海の塩分の量はたったの3%だそうです。

世界のクリスチャンは、全世界人口の3分の1。あれれっ!でも世界は大分腐敗している様ですね。この牧師さんはこう言っています。「形だけのクリスチャンが多いからでしょう。」クリスチャンとは立派な行いをしている人と思われる人が多いのですが、私ヒロばあちゃんは、聖書を読んで、神に愛された人々のあまりにもクリスチャンらしからぬ行動に、「何、この人許せない!」なんて思ったりしていました。

ユダヤのダビデ王は性格もまだわからないうちに、その美貌故かまたは自分好みの女性だったからか、バテシバという女性に手を出し、果てはそれを隠すため策略をめぐらし、ついにはこの女性の夫を戦地の激戦区に送り出し殺してしまいました。洪水後のノアはぶどう畑を設け、ぶどう酒を作り酔っ払って丸裸で寝ていたり、イエスの弟子ペテロは「何があってもイエスから離れない。皆が裏切っても私は裏切らない。」といった後、イエスを3度も否認し、「私は本当にあの人を知らない。」と、なんと誓ったりまでしました。こういう箇所を読んで、なんという人達でしょうと憤慨したりシていましたが、聖書を長く研究していると、罪を侵さない人間はいないこと(聖句がそう行っています。)、人の事をとやかく言う立場に立てる人はいない事に気づいてきます。では、誰も完全に立派になれないなら、「どういう人がクリスチャンと言えるの?」といったという疑問が生じますよね。

上記の牧師さんはとても面白い例を上げて、クリスチャンの精神を表したドイツでの本当にあった出来事について教えてくれました。
<ドイツが、まだ東と西に分かれていた頃の話>
ある夜、東ドイツ側の人々が運べる限りの量のゴミを西ドイツ側の町に投げ入れました。西ドイツ側の人達は、皆でどうしようかと相談しました。「同じくゴミを投げ折れよう。」という意見も有りました。その後、西ドイツ側の人達は集められるだけの高級食料品を集め、東ドイツ側に運び入れ、立て札を立てましたました。そこには、こう書かれていました。「人は、自分が持っているものを分け与えるものである。」



ここからは、またヒロばあちゃんのお話
ある人は、「日本人の中には、まだこのような精神の残っている人が多くいる」といいます。聖書の言葉によれば、「神を知らずとも、良心を持っている人々」のことか。
原爆の後、ある時子どもたちがアメリカ兵からチョコレートを貰ってきた時、母がまず言った言葉は「行って、お礼を言ってきなさい。」だったそうです。このような態度は、他国では稀に見ることだそうです。日本人のん心にある感謝の念は、今ある恵まれたものを当然と考えず、感謝して受け取る心なのでしょう。だから、わたしたちは食事の時、命を提供してくれる食物に対し「頂きます。」と言い、食べ終わると感謝を込めて「ごちそうさま。」というのでしょう

このお話を聴くと、「神の愛を反映させて地の塩になるのにはかなりの長〜い道のりがあるな〜!」と思いませんか?この西ドイツの人々の様に、皆で冷静に相談し合えば確かに文珠の知恵が湧きますね!クリスチャンでなくとも、神はいつでも誰の祈りでも聴いてくださるので、もし神が初めに人間を創造された時のような、神の友のような関係になりたいと思ったなら、毎日思いを打ち明けて何度も祈ってみてくださいね。人間同士でもたま〜に会うだけでは親しくはなれませんよね。たま〜に祈るだけでは、神の真の友にはなれないのでは?

<別の教会の牧師さんのクリスチャンについての説明>
教会に通うこと、自分より不幸な人々に奉仕すること、良い人間であること、ではあなたをクリスチャンにすることは出来ません。ある伝道者が言ったように,「ガレージに行ったからといって、自動車を作ることにはならないように、教会に通ったからといって、人をクリスチャンにすることにはならない」のです。教会員であること、定期的に礼拝に出席すること、教会の働きに献金することで、あなたをクリスチャンにすることは出来ないのです。

聖書では、わたしたちの行なう善行が、神さまにわたしたちを受入れてもらうことにはならない、と教えています。テトスの手紙の3章5節では,“神は,私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分の憐れみの故に,聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。”と語っています。ですから、クリスチャンとは神によって新しく生まれ変わった人なのであり(ヨハネの福音書3章3節、3章7節、第一ペテロの手紙1章23節)、イエス・キリストに信仰と信頼を置いている人なのです。エペソ人への手紙2章8節には、“あなたがたは、恵みのゆえに,信仰によって救われたのです。それは,自分自身から出た事ではなく,神からの賜物です。”と語っています。真のクリスチャンとは,、ただイエス・キリストだけを信じ、信頼を置く人です。彼らが信頼しているのは、ある宗教や、道徳律や、やって良い事良くない事のリストに従うことではありません。

真のクリスチャンとは、イエス・キリストという人格を信仰し、信頼を置き、イエス・キリストが罪の代価として十字架につけられて死なれ、三日目によみがえって、死に打ち勝ち、イエスを信じる人全てに永遠の生命を与えるのだ、という事実を信じる者なのです。ヨハネの福音書1章12節は次のように語っています。“しかし,この方を受入れた人々,すなわち,その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。” 真のクリスチャンとは、完全に神の子どもであり、神の家族の一員であり,キリストにあって新しい生命を与えられた者なのです。真のクリスチャンの印は、他の人に対する愛であり,神のことばに従うことなのです。(第1ヨハネの手紙2章4節、2章10節)