嫌いな人とか、自分を裏切った人とか、自分と敵対関係にある人の利益になるのってシャクというか嫌ですよね。
心情的に気分が悪い…くらいならともかく、そのために自分の利益が減るとなると何としてでも阻止したいと思うかもしれません。
デール・カーネギーの名著「人を動かす」には次のように書かれています。
「盗人にも五分の理を認める」
これは、たとえ相手が犯罪人であっても、批判や非難をせず理解を示すという意味です。
理を認められないような相手っていますよね。
犯罪者とまでは言わなくても、自分の周りに「まったく理解や共感のできない人」っていませんか?
デール・カーネギーの言葉を借りると、そういう相手の理も認めた方がいいようです。
もちろん言葉の意味は理解できますが、私は受け入れるのが難しいと今まで思っていました。
ただ、今は少し受け入れられるようになったと思います。
達観したとは言いませんが、そういう人間にも役割はあるんだろうと思えるようになったんです。
どこにも理を認めることができない言動をするような邪悪な人間、、
信頼できない、友だちになれないのはもちろん、お近づきにもなりたくないと思います。
でも、そういう邪悪な人間には、邪悪な人間としての役割があるのかなと思えるようになりました。
例えば、善悪という言葉がありますが、善を意識するためには悪の存在が欠かせないんですよね。
対局に悪が存在するから、善が存在するんです。
ゆえに、悪という存在が見えることで、善が何であるかということを知れるので、そういう意味において悪の役割が認められます。
例えば、
悪がいるから、善が一致団結する、
悪に五分の理を認めるから、それ以外の利益を守ることができる、
ただ、認めるのはあくまで役割だけです。
その邪悪な人間がする言動そのものを認めることは一切ありません。
その一方で、その邪悪な人間が起こした事柄に関しては受け入れるしかありません。
起きた事柄がどんなに受け入れがたいことだとしても、時間を戻して無かったことにはできないので、受け入れるしかないからです。
「起きたこと全ては正しい」という原則にも通じます。
その上で、邪悪な人間が起こした事柄に対して、出来ることを最大限やっていくこと
また、何が起こったとしても、時には休んでもいいけど、歩みを止めない事が、命あるもの生きている者の努めだと思っています。
話が壮大になりましたが…
邪悪な人間が邪悪であることに変わりはなく、いないに越したことはありません。
ただ、存在を消すことができない以上、五分の理を認めることで自分や大切な人を守ることにつながる
というのが
「盗人にも五分の理を認める」
を私になりに解釈した結果です。
いいねと思ったらクリックお願いします♪
