大きな壁にぶちあたった時
それを乗り越えさせるものは何かと考えたら
私の場合、”子どもの頃の幸せな記憶”です。
頑張ろうとする気力も
負けない気持ちも
それを受けとめるベースが自分の中にないと
崩れてしまうからです。
じゃあ、”子どもの頃の幸せな記憶”って何かと考えたら
家族で食べる夕食の時間とか
おばあちゃんにかわいがってもらったこととか
夏休みに山でいとことトンボ採りをしたこととか・・・
他愛もない日常の一つひとつが
幸せな記憶となって
自分に蓄積されていることに気付きます。
そしてそれらの大半は
誰かとの”共有体験”です。
身近な人と同じ時間を共有することが
何よりも幸せだったような気がします。
自分はここにいていいんだ、
自分は愛されているんだ、という安心感が
強い心を育ててくれたのではないかと思います。
さて、今度は自分が親になり
子どもにそうした幸せのベースをつくってあげられているだろうかと
日々考えているところです。
大人のペースや都合で
どれだけ”共有体験”のチャンスを失っていることでしょう・・・
夕食の時間が多少遅れても
帰宅途中、足を止めて動かない娘を急かさずに
隣りへ行って一緒に
しばらくカタツムリの歩みを眺めることや
止まらないお喋りに娘自身が疲れて寝てしまうまで
ちゃんと聴いてあげること・・・
そんな些細なこと一つひとつが幸せな記憶となり、
いつか娘を支えるベースとなるのかもしれません。
親の役割はいろいろあれど
とにかく、まずは”共有体験”。
そう自分に言い聞かせながら
日々子どもと向き合っています・・・
それを乗り越えさせるものは何かと考えたら
私の場合、”子どもの頃の幸せな記憶”です。
頑張ろうとする気力も
負けない気持ちも
それを受けとめるベースが自分の中にないと
崩れてしまうからです。
じゃあ、”子どもの頃の幸せな記憶”って何かと考えたら
家族で食べる夕食の時間とか
おばあちゃんにかわいがってもらったこととか
夏休みに山でいとことトンボ採りをしたこととか・・・
他愛もない日常の一つひとつが
幸せな記憶となって
自分に蓄積されていることに気付きます。
そしてそれらの大半は
誰かとの”共有体験”です。
身近な人と同じ時間を共有することが
何よりも幸せだったような気がします。
自分はここにいていいんだ、
自分は愛されているんだ、という安心感が
強い心を育ててくれたのではないかと思います。
さて、今度は自分が親になり
子どもにそうした幸せのベースをつくってあげられているだろうかと
日々考えているところです。
大人のペースや都合で
どれだけ”共有体験”のチャンスを失っていることでしょう・・・
夕食の時間が多少遅れても
帰宅途中、足を止めて動かない娘を急かさずに
隣りへ行って一緒に
しばらくカタツムリの歩みを眺めることや
止まらないお喋りに娘自身が疲れて寝てしまうまで
ちゃんと聴いてあげること・・・
そんな些細なこと一つひとつが幸せな記憶となり、
いつか娘を支えるベースとなるのかもしれません。
親の役割はいろいろあれど
とにかく、まずは”共有体験”。
そう自分に言い聞かせながら
日々子どもと向き合っています・・・