full-length mirror

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そのときそのときの自分をさらけ出していきます。

 

 

感情が動いた瞬間を、文字で書き表したい。

でも、動きのあるものを静止画で表すのは難しい。

 

同時に、感情が動いた瞬間を捉えるのも困難だ。

流れる水をつかもうとするようなこと。

 

 

陳腐になるのは嫌だけど、仕方なく書く。

 

 

目が合った瞬間を思い出す。

やっぱり、目が合うことって特別だ。

 

最近、どれぐらい目を合わせることがあっただろうか。

目を合わせずに生きるっていうことは、半分「生きていない」ともいえるんじゃないか。

 

 

「目は口ほどにものを言う」、もしかしたら、言葉が出なくてよかったのかもしれない。

たぶん、何かをしゃべっていたら、今度は目を見る余裕がないから。

 

目が合った瞬間、君がそこに存在し、僕もそこに成立していた。

今はまた君が消えて、姿を見ることができても、それは「あのときの君」とは別人だ。

 

じゃあ今現在、僕は存在しているのかな?

君の瞳に映った瞬間、僕は僕を認識した。

 

絶対的な自分を認識することが可能なのかは知らない。

普通は、相対的に自分を構築していくはずだ。

 

乾いて色褪せていた心が、久しぶりに瑞々しさを感じた。

 

 

振り返ってみて、そこに価値を見出してみる。

 

…なんて真面目に書いていたら、なんだか肩の力がふっと抜けた気がした。

 

 

今度は、いつ、どこで君の存在を見つけられるだろうか。

そして同時に、どんな場所で僕の存在に気づけるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十年前は、未来の自分に会ってみたいと思っていた。

”もし十年後の自分に出会えたとしたら、なんて言われるだろうか”
そんな想像をしていた。
 
最近はたまに、
”もし十年前の自分に会ったら、なんて声をかけたらいいだろうか”
そんなことがふと頭によぎる。
 
だけど、頭によぎるだけで、実際に話す内容を考えたりはしない。
それこそ十年前の自分なら、事細かく想像してみたところかもしれないけど。
 
 
久しぶりに会いたい人がいる。
もう会う機会はなさそうだけど、
「過去の自分」に会うよりは、会える可能性がある気がする。
 
会って何を話したいか。
多少現実的な気がして、こちらについては具体的に考えてみる。
 
ただ得意気に話したいだけだ。
 
そう考えてみると、
結局は誰かと話すことも、思ったことを紙の切れ端に書き連ねてみるのも、
自分にとっては大して変わらないんじゃないか。
 
まあ、元々そんな考えなのかもしれない。
言ってみれば、
誰かに華やかに見せびらかして褒められるより、
一人で部屋の姿見の前で悦に入る方が好き、
その違いなだけかもしれない。

 

 

ほしいものは、当然価値のあるもの。

無価値なものは、ほしくない。

厳密にいえば、あってもなくてもどちらでもいい。

 

もちろん、価値のあるものに囲まれていたい。

そこら辺に転がっているガラクタは、目につけば捨てるし、そもそも気にもかけない。

 

じゃあ、どうやって価値を見出しているんだろう?

無価値なものとの区別は、どうやってつけているんだろう。

 

殴り書きのメモも、ゴミ箱に投げ捨てもいいし、大体はそのままで放っておく。

 

 

 

 

何かに追われる夢を見て、叫びたかった。

それなのに声が出なくて、もどかしさを感じる。

 

今度同じ夢を見たら、これは夢だと見破って、大声で叫びたい。

でも一体、なんて叫べばいいんだろう。

それに夢だと気づいているのなら、そもそも叫ぶ必要もないんじゃないか。

 

だけど、叫ぶ必要がなくても叫んじゃいけないこともないから、やっぱり思い切り叫んでみようか。

そんな風に、叫ぶ自由と叫ばない自由を天秤にかけて、夢の中でさえも不自由になっていく。

 

今日こそは明確な答えを探してから眠りにつこうと意気込んでいたのに、

案の定うまくいかずに、また今夜も悪夢に怯えながら目をつぶる。

 

お気に入りの山に、今日も登ってみる。

 

ぼんやりした緑色が奏でる音や香りを味わいながら登山道を上がって、

山頂からすっきりした景色を眺めたかったのに、

なんだか瑞瑞しい気持ちになれない。

 

この山に登れば、もっと楽しく感じられるはずなのに。

 

天気も違うし、季節も違う。

何回も来ているから、新鮮さも無くなっているかもしれない。

 

でも、何より違うのは僕自身の登り方。

 

目に入る景色にワクワクしながら、一歩一歩を踏みしめていた時の登り方をしていない。

もやもやしたストレスを消したくて、ただ山頂へ早足で急ぐだけ。

昔感動したあの景色をもう一度眺めれば全てが解決すると信じ込んで、俯きながらの機械的な登山。

 

 

家に帰ってきても、見たい番組も聴きたい曲も見つからない。

質の良いコンテンツが消え去ってしまったのか、それともただ自分が楽しめなくなっただけなのか。

イライラしながらチャンネルを回して、焦りながらスキップボタンを押していくうちに、せっかくの休日が無為に過ぎていく。

 

 

ぐるぐると考えて、いつまでも悩んでいてもいいのだけど、時間が許してくれない。

取り出したもどかしさを、再び心の中に押し込んで、無理やり眠りにつく。

 

 

この前、お酒を飲んだら気持ち良かった。

また同じ気持ちになりたくて、同じ銘柄、同じセッティングを用意してみたけど、

今回は時間に追われてしまって、前のように良い気分にはなれなかった。

 

空になったグラスを見つめて、

もっと違うものを飲めば良かったかな、次は何かを変えた方が良いかなとか、

そんなことを考えてしまう。

 

さっきまでろくに味わいもせずにグラスを傾けていたのに、

なんでこんなに空のグラスを見て想像を膨らませているんだろう。

 

飲み干した直後から感じてしまう、この渇きはどうしたら収まるんだろう。

今まで確かに「飲んでいた」はずなのに、なんで頭の中に「飲めなかった」と浮かんでいるんだろう。

 

 

もっとスッキリと感情をまとめたいけれど、いよいよ時間になってしまった。

でもかえって、それでいいのかもしれない。

 

 

 

自分の部屋に、一冊だけ不思議なアルバムがある。

一枚も写真が入っていない代わりに、カットした画用紙がしまってある。

 

その時その時の気分で色を塗った画用紙。

一色じゃなくて、何色も使って、得体の知れない模様が出来上がっている。

 

さらに、香りまでつけてある。

これもやっぱり、その時のお気に入りの香りを適当につけたもの。

もちろん、ものによっては香りがもう消えかかっているのもあるけど。

 

 

定期的に色を塗って、いつの間にか画用紙の切れ端が増えていったんだけど、

毎度毎度そんなに考えて色を塗ってるわけじゃない。

 

例えば、色塗りの途中で面倒になってそのままアルバムにしまったものや、

コーヒーをこぼして、その跡が完全に消せなかったものもある。

 

でも、後から見ると、そんな空白や汚れも何か芸術的に感じて、

一人で満足して眺めている。

 

 

もちろん、人に見せたことはない。

客観的に見て、価値のあるものじゃないと思うから。

もっとも、普通の家族アルバムとかだってそれは同じだろうだけど。

 

 

でも、ふとした時に思い出してこのアルバムをめくると、

自分に勇気を与えてくれる。

 

 

この前、友達が写真を見せてくれた。

世界的な名所で撮った写真で、確かに景色は綺麗だし、映っている人たちも楽しそうだった。

 

SNSのアイコンにでもしたら、なんか良い感じになりそうな写真だな、

なんて考えて、友達と別れた後、自分もそんな写真を探してみた。

 

だけどもちろん見つからなくて、気づくと画用紙のアルバムをめくっていた。

あの写真とは比べ物にならないし、そもそも写真ですらないけど、

何故か少しだけ安心できた。

 

一瞬だけ、「このアルバムを見せてみようか?」なんて頭によぎったけど、

理解されるはずがない、とすぐに気づいて思わず一人で苦笑した。

 

その代わりに、久しぶりに新しい切れ端を追加しようかと考えて、

とりあえず画用紙だけ切って、その日は寝た。

 

 

その画用紙を目の前にして、

何色で塗ろうか、何の画材を使おうか、今回は香りはどうしようか、

と今考えている。

 

何も思いつかなければ、白紙のまま入れてしまうし、

気分が乗らなければ、用意した切れ端は破り捨ててしまう。

 

 

さあ、今回はどうなるかな。

 

 

 

ふと感傷に浸りたくなって、お気に入りだったアルバムを探してみる。

昔を振り返りながら、当時の感情をまた味わおうとするけど、うまくいかない。

 

すっきりした気持ちになりたくて、少し熱めのお風呂に浸かってみたのに、あっという間にお湯が冷めてゆく。

今にもアラームが鳴り出すんじゃないかと思って、ゆっくり目を閉じてもいられない。

 

 

最近は、それでも構わないと考えてみる。

悪天候で、登頂を断念する日もある。頂上に登れなくたって、登山を楽しむ。

山頂に到達することは一つの目安ではあるけれど、充実度を示す測りにはならない。

 

そして、「登れない日もあるから、登れた時が楽しい」とは考えない。

十回中十回とも、天候不順で登れなかった時も、同様に楽しんでいく。

 

 

見たかった景色が空にあったのに、もう一度顔を上げてみると、すでに雲が覆ってしまった。

それでも深く考えずに、ゆっくり登ってきた道を足早に駆け降りる。

 


もっと上手く書けるつもりなのに、思うような文章にならなくてペンを置く。

書かなければ、形にしなければ、
駄作を残すこともなく、絶品の可能性を残したまま空想していられる。


掴みどころのない、豆腐のような白い塊。
握りしめようとするほど、ぼろぼろと砕けてゆく。

焦燥感も、喉の奥からこみ上げる渇きも、
裏返してみれば、安寧や充足、癒しと繋がっているのだろうか。


夜の庭を隅から隅まで照らそうとしてもきりがないし、
今回はこの辺で。

 

 

書こうと思うと、書けない。

書かなくちゃと思うと、なおさら書けない。

 

書かなくてもいいや、だと書きやすい。

書く必要がない、なら「書けなかった」ということがなくなる。

 

 

独り言と、誰かへのメッセージって違うんだろうか。

例えば、この記事を、非公開にして1人で読むのと、公開にして投稿することにどんな違いがあるんだろうか。

 

読まれないかもしれないメッセージ。

同時に、読まれているかもしれないその言葉。

 

頭で考えるだけにとどめるのと、それを形にするのは、そりゃ異なる。

いや、そういう話じゃないな。

 

曖昧で、それっぽい答えとして、

実は「自分へのメッセージ」ということを考えてみる。

そして、それが、読まれる状態にしておいた方が、リアリティが増す。

 

 

昔このブログで「手紙を瓶に入れて海に流してみる」なんて比喩を書いたことがあったけど、

今この記事を書く気分もまさにそんな感じだ。

 

結論をまとめる「必要もない」し、

綺麗なオチを作「らなくてもいい」ので、この辺で終わり。