日経新聞日経こんな記事を見つけました。


『レコード復権 若者つかむ 〜10年で生産10倍 SNS映えも背景』



1976年には約2億枚生産されていたレコードが、1982年のCDの発売とともにCDに取って代わられ、2009年には約10万枚にまで落ち込みましたが、その後次第に復活し、2018年には約110万枚にまで増え、今では新曲をレコードのみで発表するアーティストもいるほどだそうです。


1971年生まれの自分が洋楽に目覚めた中学生の頃は、CDは出始めていたもののまだまだレコードが全盛の頃。今はなきレンタルレコード屋に通い詰め、借りてはテープにダビングし、を繰り返していたのを思い出します。レコードに針を下ろした時のかすかなノイズと曲が始まるまでのワクワク感。データ配信の今はダウンロードにかかる時間は数秒ですが、レコードのダビングは再生と同じだけ時間がかかります。その間レコードを聴きながらジャケットを眺めたり、ライナーノーツや歌詞を読んだり、思えば今に比べると随分ノンビリしてたものです。そして、テープの長さよりレコードの方が長かったりすると、録音が途中で切れてしまい、長いテープを買い直して一からやり直し、なんて悔しいことも一度や二度ではありませんでした。


でもそんな「面倒臭さ」が一曲一曲との出会いを濃密なものにしてくれていたような気もします。便利さでレコードに取って代わったCDも、今や同じ理由で配信サービスに取って代わられました。そして、今度は一番手間のかかるはずのレコードが復活してきました。便利なのは良いことですが、それによって体験が希薄になることも事実です。便利さと体験の濃密さは反比例する。便利なだけでは味気ない。レコードの復権は、社会全体で濃密な体験の価値が見直されているということの一つの表れなのでしょう。

『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒット以降のクイーン人気の再燃は嬉しい限りですが、改めて彼らの歴史を辿りたくて、ドキュメンタリー映画『クイーン・ヒストリー 1&2』を観ました。どちらもファンには興味深い内容でしたが(1のブライアン・メイの奏法解説などはマニアックに過ぎるかもしれません 笑)、ドキュメンタリー作品としてはフレディの死までを扱った2の方が個人的には面白かったです。





その中で、イギリスとアメリカの違いを考えさせられる、ちょっと興味深いエピソードがありました。ディスコを大胆に取り入れた賛否両論のアルバム『ホット・スペース』からシングルカットされた「ボディ・ランゲージ」という曲がありますが、アメリカではこのジャケットが卑猥ということで差し替えになったそうです。




また、大ヒット曲「レディオ・ガ・ガ」を含むアルバム『ワークス』からのシングル「ブレーク・フリー」のPV(メンバーが全員女装してるヤツ)が、これまたアメリカでは下品と大不評だったそうです。その中で、「イギリス人は笑い飛ばしたのに、保守的なアメリカではジョークが理解されなかった」的なことをイギリス人関係者が語っていました。




「伝統の国」イギリスよりも「自由の国」アメリカの方が保守的、というのは、一聴すると少し不思議な感じがするのですが、考えてみれば、ビートルズが生まれたのも、パンクが生まれたのもイギリス。そして、この発言からもわかるように、実際イギリス人はアメリカ人は保守的、と思っているようです。


話は変わりますが、最近読んだ歴史学者の岡田英弘氏の著書『歴史とはなにか』の中で、アメリカの歴史観について述べられたところがありました。そこで氏は、「何のまとまりもなかったところに作られた人工的な国」であるアメリカは、「過去と断絶し、憲法だけで作られた国」であり、他の国と違って「アメリカ人」になるのは自分の意志でなる、ということが書かれていました。


これは、言い換えると、アメリカは過去の歴史に根ざしたアイデンティティを持つことができない(同じ歴史を共有する仲間、という意識を持つことができない)ため、アメリカ人になるためには憲法に示されたアメリカ建国の精神(価値観)への同意が必要である、ということだと思います。そうだとすると、「アメリカ人」の中には考え方の違いに対する一種の不寛容さがある、ということも頷ける気がしますし、「アメリカ人は保守的」という先のイギリス人の発言にも納得できるところがあるように思います(アメリカではキリスト教原理主義的な考えが依然として根強いように思いますが、それもこのことと無関係ではないのでしょう)。そして、これが時として、自分たちの信じる「正義」を押し付けてしまうアメリカ特有の「偏狭さ」となって現れてしまうことにつながるのでしょう。


昨今、ダイバーシティの重要性が唱えられますが、このような「不寛容さ」はその流れとは反するような気がします。「ダイバーシティが重要」という言説が一般的に受け入れられた今では、このような不寛容さも障害にはならないのかもしれませんが、真の意味でダイバーシティを実現するには「主義」ではなく、より根源的な部分に根ざしたアイデンティティを持つことによる、一種の「余裕」のようなものが必要なのではないか、と思いました。


ウィーン出張で一日空いたので、5月4日行きたかった美術史美術館に行ってきました。

世界に冠たるハプスブルク家のコレクションだけあって、膨大な名画の数々がゆっくり楽しめるとても立派な美術館でした。今回は2階部分(オーストリアの数え方では1階)の絵画展示だけしか観る時間がありませんでしたが、それだけでも全部観るのに3時間近くかかりました。

15時ごろ行きましたが、入口には入館を待つ人の列が。入るまで15分くらいかかりました。

美術史美術館入口

入口を入ると、正面に2階に続く階段があります。階段を見上げると、立派な天井画が。

正面階段


階段上部の天井画

また、気をつけて見ないと見過ごしてしまいますが、階段を上ったところのアーチ上部にはクリムトによる壁画もあります。


階段アーチ上部のクリムトの壁画

2階に上がって左手が、クラーナハ、ブリューゲル、デューラー、フェルメールなどがあるオランダ・フラマン・ドイツゾーンです。特にブリューゲルのコレクションは世界最大規模だそうです。

順番に部屋を見て回りましたが、そのうち自分がどこにいるのか分からなくなってきてしまい、何度か行ったり来たりしてしまいました(単に自分が方向音痴なだけかもしれませんが)。

クラーナハ「ホロフェルネスの首を持つユディット」(一昨年の国立西洋美術館の「クラーナハ」展で観て以来の再会でした)


ブリューゲル「雪中の狩人」


ブリューゲル「バベルの塔」(一昨年の東京都美術館の「バベルの塔」展では、こちらのバベルの塔は来ていませんでした)



フェルメール「絵画芸術」(先日の上野の森美術館での「フェルメール」展には来ていなかったので初めての鑑賞でした。フェルメールの作品をほとんど人混みもなく間近で観られたのは嬉しかったです)


建物右手は、ティツィアーノ、ルーベンス、ラファエロ、カラヴァッジォ、アルチンボルト、ベラスケスなどがあるイタリア・スペイン・フランスゾーンです。特に大好きなカラヴァッジォの作品を何点か観られたのが嬉しかったです。

ルーベンス「メデューサの頭部」


ベラスケス「マルガリータ王女」


カラヴァッジォ「ロザリオの聖母」


アルチンボルト「夏」


ラファエロ「草原の聖母」


テニールス「レオポルト・ウィルヘルム大公の画廊」

全ての部屋を回った時はもう閉館時間(18:00)が迫っていたので、急いで1階(オーストリアの数え方では0階)にあるミュージアムショップで日本語のカタログと絵はがきを数枚買いました。

入口から見上げたドーム部分

日本の企画展では混雑してゆっくり観られないような名画の数々がゆっくり観られる、素晴らしい美術館でした。今度また来た時は、もっと時間をかけてゆっくり鑑賞したいです。