元信による「画体」の確立は、その後の狩野派のあり方を大きく変えました。(中略)そして、元信の血族や門弟たちがこの「画体」を学ぶことで、元信スタイルで描くことのできる絵師が複数生まれ、組織的な集団政策が可能となりました。このことが狩野派を専門絵師集団として発展させていくことになります。

 

 

 

 

本書は、2017年にサントリー美術館で開かれた六本木開館10周年記念展『天下を治めた絵師 狩野元信』展の公式図録です。展示された数々の名品とともに、それらの作品や狩野元信が狩野派にとって果たした功績などが詳しく解説されています。

 

 

優れた「経営感覚」によって狩野派の繁栄の礎を築いた狩野元信

 

 

狩野派といえば、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)までの約400年にわたって「天下画工の長」として、画壇の頂点に君臨し続けた日本絵画史上最大の画派です。そして、狩野元信は始祖・狩野正信の子として狩野派を引き継ぎ、その後も、元信の孫の永徳、そのまた孫の探幽といった天才が続き、狩野派は栄華を極めるわけですが、その礎を築いたのが、二代目であるこの狩野元信でした。

 

では、狩野元信のどこがそれほど偉大だったのでしょうか。元信個人が、歴代の狩野派のなかでも最も優れた画力を持っていた一人であったこともありますが、画派の発展という意味でいえば、重要なのは元信が持っていた「経営感覚」ともいうべきものだったそうです。

狩野派にとって幸運だったのは、この二代目の元信が、歴代の狩野派のなかでも最も優れた画力を持っていたこと、そして、芸術家にしては珍しく、物事を俯瞰的に捉え、自身が率いる工房の経営について的確に判断できる冷静さを備えていたことである。狩野派の栄華は、元信によってその基礎が築かれたといえよう。

 

 

元信様式の「マニュアル化」

 

 

ではその「経営感覚」とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。本書には以下のような解説があります。

狩野派の台頭を支えた大きな要因のひとつに、「画体」の確立があります。従来の漢画系の絵師たちは、中国絵画の名家による手本に倣った「筆様」を巧みに使い分け、注文に応えましたが、元信はそれらの「筆様」を整理・発展させ、真・行・草の三種の「画体」を生み出します。そして、その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な作画活動を可能にしました。襖や屏風などの制作時には弟子たちが元信の手足となって動き、様式として揺るぎない、質の高い大画面作品を完成させました。

 

元信による「画体」の確立は、その後の狩野派のあり方を大きく変えました。「画体」は、緻密な構図と描線による真体、最も崩した描写である草体、そしてその中間にあたる行体の三種からなり、書道の楷書、行書、草書に倣って名付けられました。それまでの「筆様」とは違い、いずれの「画体」も元信流に再構成されており、ひとりの絵師の様式として統一が取られています。そして、元信の血族や門弟たちがこの「画体」を学ぶことで、元信スタイルで描くことのできる絵師が複数生まれ、組織的な集団政策が可能となりました。このことが狩野派を専門絵師集団として発展させていくことになります。

 

ルネサンスの三代巨匠のひとり、ラファエロも、自らの大工房を率いて数多くの注文に対して高いレベルで応えることで名声を高めましたが(これは、いわゆる「個人技」で勝負したレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロとは異なるラファエロの特徴でしょう)、ちょうどこれと同じようなことを元信は行ったと言えるでしょう。

 

基本的に宋元名家の手本の筆様をまねて描かれていた父・正信の時代には、狩野派はまだ個人経営の域を出ていませんでした。しかし、元信による真・行・草という三種の「画体」の確立によって、天才・元信の様式が一定の「マニュアル」化され、それを血族や門弟たちに叩き込むことで、狩野派は個人経営を脱し、均質な絵画作品を組織的に大量生産することができるようになった、ということが言えるでしょう。

 

 

元信に学ぶ「マニュアル化」の効用

 

 

「マニュアル化」という言葉は、「画一化」や「没個性」の代名詞のような印象を与えます。そして、ISOマネジメントシステムへの批判も、このマニュアル化がもたらす弊害とともに語られることが多いのは周知の事実だと思います。

 

しかし、この狩野元信の「画体」の確立が狩野派の発展に大きく寄与したという事実は、少なくとも芸術のような創造的な分野に「マニュアル化」は全くそぐわないと思っていた自分にとって大きな驚きでした。

 

確かに、絵や彫刻といった美術作品そのものよりも、アイデアやコンセプトの比重が大きくなってきている現代芸術においては、「マニュアル化」という考えは全くそぐわないものかもしれません。しかし、かつての絵師は、注文主の要求に応えつつ、自らの独自性、創造性を発揮する、ということが求められ、そこにおいては、元信が実践した「画体」という「型」の導入が非常に有効であったことは紛れもない事実でしょう。そして、そのようなある種のマニュアル化を行なったからといって、狩野派の独自性、創造性が阻害されることはなかったからこそ、400年もの間、「天下画工の長」として画壇の頂点に君臨し続けることができたのだと思います。

 

誰でも一定レベルの仕事ができるようにするために有効な「マニュアル化」ですが、それは、創造性が要求される最たるものである絵画の世界においてさえ有効である場合がある、ということは、ISOマネジメントシステムに携わる者として、頭の片隅に置いておいても良いのではないかと思います。「マニュアル化」を闇雲に要求して、組織の活力を阻害することは厳に慎まなければなりませんが、元信が行ったような「良い」マニュアル化には学ぶところが大きいと思います。

 

 

参考:『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』

 

  "修業というのは、そういう意味では非合理的なものである。達成目標と、現在していることの間の意味の連関が、開示されないからである。「こんなことを何のためにするんですか? これをやるとどういうふうに芸が上達するんですか?」という問いに回答が与えられないというのが、修業のルールである。"

 

 

 

 

本書は、哲学者であり武道家でもある著者による、武道、中でも特に武道における「修業」についての考察を中心に書かれた本。著者の著作は『寝ながら学べる構造主義』を初めて読んだ時、その分かりやすさに非常に感銘を受け、映画(『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』)やテレビ(『100分de名著』)などでの発言にも共感するところが多く、その後『日本辺境論』や『街場の芸術論』、『コモンの再生』など数冊を読んできましたが、本書は初めて読む武道家としての著者の一面を知ることができ、興味深く読みました。

 

 

「理不尽な」師匠は本当に理不尽か?

 

 

よく映画などで一見何の役に立つのか分からないような厳しい修業を強いる師匠に反発する弟子に対して、師匠が「口答えをするな」と言って何の説明もなくとにかく従わせる、というような「理不尽な」場面が描かれることがあります。これは本当に「理不尽」なのでしょうか。

 

確かに、弟子からすれば、厳しい修業をするのだから、それによって何が得られるのかを知りたい、何のためにするのかが分からないまま辛い努力をするのには耐えられない、という気持ちも分かります。

 

 

「修業」の成果は説明できず、目標設定できない

 

 

だったらここで、「これだけ努力すればこう言った成果が得られる」という説明をすれば良いのでしょうか。このような説明は一見合理的ですが、そこには「深刻な欠陥がある」と著者は言います。

この「努力と成果の相関」スキームには深刻な欠陥がある。それは人間の身体をシンプルなメカニズムとしてとらえてしまうことである。入力負荷をn%増加すれば、身体能力がn%向上する、そのような単純なメカニズムとして自分の身体をとらえてしまうようになることである。

 

修業によって身体の使い方が変われば、必ず身体的な出力は変化します。しかし、「そのときに変わった値は、それまで用いていた度量衡では考量できない」のです。

確かに動きは変わった。だが、何がどう変わったのかを数値的に表示することができない。それは「ものさし」では重さが量れず、「はかり」では時間が計れないのと同じことである。「運動の質が変化する」というのはそういうことである。

 

従って、修業して獲得されるものは、獲得できた後に、あくまで事後的に「ああ、こういうものだったのか」という形で分かるものであり、その度量衡を持たない修業を始める前の人には「意味不明」なのです。このような経験を、著者は以下のような言葉で説明します。

それまで自分自身の身体運用を説明するときに用いていた語彙には存在しない語を借りてしか説明できない動き、そのようなものが「できてしまった」後に、「私は今いったい何をしたのか?」という遡及的な問いが立ち上がる。それがブレークスルーという経験である。

「私の心身のパフォーマンスの向上」というときの「私」が、昨日とはもう別人になったということである。「昨日の私」がめざしていた場所とは別のところに「今日の私」はたどりついてしまったということである。

 

以上のようなことから、著者は「修業」というものを以下のように定義します。

修業というのは、エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく、という力動的なプロセスです。

 

「修業」とはこのような性質を持ったものであるので、修業する前に明確な目標設定をすることはできません。なぜなら、その時点では自分の中にできたときの「身体実感が存在しない」のですから。こういった意味で、冒頭の引用にあるように、著者は修業というものは非常に非合理的なものだ、と言います。

 

 

ISOマネジメントシステムにおける「力量」の要求事項

 

 

以上の議論は「修業」、特に武道的な身体運用の修業に関する議論ではありますが、ISOマネジメントシステムの視点に慣れた自分には非常に興味深いものでした。なぜなら、それがISOマネジメントシステム規格で言われている「力量」の考えとは異質なものに思われたからです。

 

ISOマネジメントシステム規格では、共通的な要素として「力量」(7.2)という項目があります。そこでまず求められるのは、ある仕事に従事する人に必要な力量を明確にすること、です。これは言い換えれば、その仕事に従事する人は「何ができなければならないか」を明確にする、ということです。そして、そのような力量を持っていない人をその仕事に従事させようとする場合には、その必要な力量を持てるようにするための「教育訓練」などの処置をとることが求められるのです。

 

 

職人の仕事に必要な「力量」は示せるか?

 

 

ここで、私たちマネジメントシステム審査員は、組織内のさまざまな仕事について、それを実施する上で必要とされる「力量」が予告的、網羅的かつ明示的に開示されていることを暗に期待することが多いと思います(例えば、「この加工をするにはどのようなことを理解し、どのような機械や工具を使えなければならないのか」といった形で)。

 

これは、「それができる人をその仕事に割り当てる」、逆に言えば「できない人にはやらせない」というごく当たり前の考え方に基づいており、その考え方自体は当然すぎるほど当然と言えます。しかし、本書で述べられている武道における「修業」のようなものの場合、ことはそれほど単純ではないのではないか、と考えさせられます。

 

つまり、基礎的な作業や画一的な仕事についてはそれに必要な「力量」というものを明示的に示すことは比較的簡単かもしれませんが、それが「達人技」の領域に関わるような仕事の場合、それまで同様に「必要な力量を明確にする」ことができる、と考えるのはあまりに安直な考え方なのではないか、ということです。

 

組織には、その道何十年の、達人とも言えるような職人の方々が従事している仕事があります(精密機械よりも精密な手の感覚を持った旋盤工やプレス職人、相手との絶妙な間合いを感じ取りコミュニケーションをとる営業の達人など)。そこで行われていることは、その域に達した人でなければわからない「身体感覚」としか言えないものである場合も多いでしょう。そのような仕事に対して、それに必要な「力量」を、その域に達していないどころか、まだ従事したこともない素人にわかる形であらかじめ示し、達成レベルを目標設定することなどできないのは、上に見た、修業によってしか得られない身体感覚や新たな「度量衡」をまだ持たない修業前の人に修業による成果を示し、目標設定させることができないのと同じなのではないでしょうか。

 

 

ISOマネジメントシステムの「守備範囲」

 

 

私たちISOマネジメントシステム審査員は、ややもするとISO規格の文言を金科玉条のように崇め奉ってしまい、それを絶対視して全ての場合に当てはめてしまおうとすることがあります。しかし、ISOマネジメントシステム規格はそもそも「世界最高レベル」の基準を示したものでは決してなく、あくまで最低限のレベルを維持するための基準を示したものです。そしてその最低限のレベルを継続して維持するための仕組みを作り、そのレベルを徐々に上げていく「継続的改善」の仕組みを内包していることに価値があるのです。

 

このようなISOマネジメントシステム規格の「守備範囲」をきちんと弁え、その守備範囲の中で要求されていることはきちんと満たしながら、一方でISOマネジメントシステムは何に対しても当てはめられる万能薬であるかのような驕った考え方に陥らないように常に自らを戒めることが重要なのだと思います。

 

  “現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。”

 

 

 

本書は40代前半の若き哲学者による現代思想の「入門の入門」書。難解な現代思想をざっくりとでも理解したいと思い、また以前著者の『勉強の哲学』を読んでとても面白かったのを覚えていたこともあり、書店で本書を見つけて即買いしました。

 

ここでいう「現代思想」は、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しており、本書は、その代表者としてジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの3人を挙げ、この3人で現代思想のイメージが掴める、という方針で書かれています。

 

 

複雑な世の中を単純化しないで考える

 

 

そもそも現代思想を学ぶことでどのようなメリットがあるのか。著者はこう言います。

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より『高い解像度』で捉えられるようになるでしょう。

 

「簡単さ」「シンプルさ」ばかりがもてはやされる風潮にある昨今、この視点は非常に重要だと思います。複雑なことをわかりやすくするためにある程度枝葉を削って「モデル化」することは必要と思いますが、それがかえって本質を見誤らせてしまうこともあります。常に人間は経済的に合理的な行動をとるものだ、という前提に立つ伝統的な経済学に対して、人間には感情があり、常に合理的に行動するわけではない、というある意味当然の前提に立った行動経済学が注目されるのはその良い例でしょう。

 

そして、現代思想のキーワードとして(二項対立の)「脱構築」という言葉が挙げられています。これは、「物事を『二項対立』、つまり『二つの概念の対立』によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保する」ことです。

 

私たちは物事を考えるとき、自然と二つの概念を対立させて、そのどちらが良くてどちらが良くないのかを判断しようとします。この判断をキッパリしないことは優柔不断なことで、避けるべき態度だというのが一般的でしょう。確かに経営の場で経営者が何も決断しないのは論外でしょう。しかし、そもそも決断が難しいのは、どちらの選択肢が良いのかが自明ではないからです(自明なのであればエラそうに「決断」などと言う必要もありません)。現実の複雑さを理解し、どちらの選択肢にもメリット、デメリットがあることを分かった上で「それでもあえて」決断する、ということが決断の難しさであり、安易に複雑な現実を「単純化」し、二項対立のうちどちらかが正しいことであるかがあたかも自明であるかのように考えることはかえって判断を誤ることにつながる可能性があります。そう考えると、この「二項対立の脱構築」的な考え方を身につけることは経営者にとっても非常に重要なことではないでしょうか。

 

 

管理至上主義への警告

 

 

そして、現代思想を学ぶことの重要性としてここでもう一つ言われているのが、冒頭に引用した言葉です。

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。

 

著者は、「大きく言って、現代では『きちんとする』方向へといろんな改革が進んで」いて、「それによって生活がより窮屈になっていると感じ」ると指摘します。「現代は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばである」のです。

 

著者はまたこうも言います。

何か問題が起きたときに再発防止策を立てるような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され、一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが単純化なのです。世界の細かな凸凹が、ブルドーザーで均されてしまうのです。物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。

 

これなどは、ISOマネジメントシステムの審査員としては非常に耳の痛い言葉です。

 

このような「きちんとする」方向、これはまさしくISOマネジメントシステムが目指す方向と言えます。しかしながら、マネジメントシステムの中でルールを決めて、物事を「きちんとする」ことと、ルールからの逸脱という「きちんとしていない」ことを二項対立として捉えたとき、「脱構築」的な考え方からすると、「きちんとする」ことは良いことで、ルールからの逸脱は悪いこと、というような単純化した判断をいったん留保する必要があるのではないでしょうか。

 

もちろんこれは、ルール化して「きちんとする」ことが良くない、ということではありません。それでは善悪を逆にしただけで、単なる単純化という意味では何ら変わりありません。そうではなくて、ルール化してきちんとやろうとしても、この複雑な現実において、それで全てがカバーできるとは考えない、ルールからこぼれ落ちてしまう個別の状況にもしっかり目を向けてそれぞれに対して丁寧に対応する、ということです。

 

何でも「きちんと」管理して、それによって安心・安全がもたらされる、ということはもちろんあるでしょう。マネジメントシステムは、そのような秩序化された状態を目指すわけですが、一方でそこからの逸脱を一方的に「悪」として断罪し、例外を許さない、という硬直化した姿勢、管理至上主義的な考え方は、極論すれば戦時中のファシズムにも似た危険な状況をももたらしかねない、ということを私たちマネジメントシステムの審査員は常に意識しておく必要があると思います。

 

 

「組織の状況」の理解がキーポイント

 

 

ISOマネジメントシステムの共通構造を示した附属書SLの要求事項は、「組織の状況を理解する」ことから始まります。これは、個別具体的な組織の「状況」はそれぞれ唯一無二であることを前提にし、マネジメントシステムはその個別の「状況」を常に考慮しなければならない、ということです。したがって、ISOマネジメントシステム自体、硬直化した「管理」一辺倒のシステムを指向しているのでは決してない、ということは強調しすぎることはないでしょう。その意味で、この項目が要求事項の最初に規定されていることを私たちはもっと重く受け止めるべきだと思います。

 

20世紀の思想の特徴は、「排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したこと」にあります。「本流」から外れた「傍流」としてそれまで排除され、「余計なもの」とされてきたものにそれまで気づかなかったパワーが秘められていることは、現代アートやサブカルチャー、日本が世界に誇る「マンガ」や「アニメ」文化を見てもわかります。組織経営においても、このようなルールから逸脱したものの中から真に創造的なイノベーションが生まれる可能性があることを忘れず、マネジメントシステムで大筋のところは「きちんと」やりながら、そこから外れる部分も切り捨てるのではなくきちんと目を向ける、というバランス感覚が大切だということを改めて感じます。