差別・平等と合理性 | ふぇりっくす日記

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差別や平等、合理性について。



幾つかの具体的な事象を見て考えることなのですが、

具体的な事象そのものは今回は省きます。



まぁ 日記ですから、思うままに。


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差別はあって普通


まず普通に確認だけど、差別自体はどこにでもあります。

それ自体を絶対悪としてしまったら、世の中が回らないどころか人間や動物の存在自体を否定しないといけません。


(親が自分の子を守るのも、一般的な観念を捻じ曲げて差別と言ってしまえば差別です。世界中の全ての子供を「同じ様に」守らない人は差別主義者になる…。)



差別と言っても


① 仏教用語的な平等観との対比

② 差異性を示すだけのもの

③ 人権や権利問題となる差別


など様々。



①は仏教観での 「平等」 「悟り」 の境地と対比される 「差別」 ですから…。


普通に我々が考える「差別」よりも、「識別」に近い感覚で捉えたほうが、無難かと思われます。

空・絶対領域・抽象に対する、具象化した現象世界のことであって、とても深い話なんだけど瞑想的で、普通に社会生活するにはどうでも良い話です。


②は商品や政策の差異化・差別化のように、何かを貶める類の話でない 「ただ差異性を示すだけ」なので、これも割愛。




③ですね。

権利や人権・平等を訴える人がこだわるのは。


不当な差別を無くす努力をしましょう…とするのは、ごく常識だと思います。

「差別があって当然」で、だからと居直る様では身も蓋もありません。




しかし一方で、個人の主観や地域によって何が差別かそうでないか変わりますし、

基本的に絶対ということはありえないはずです。


だから 「差別的な人」 を絶対悪としてぶった斬ってる人は、それこそが最も差別的なケースもありますので、やたら差別論を多用して優位を得ようとするのは好ましくないように思えます。


(非常に、浅ましく見えるケースがあります)





一般的に通じる範囲での差別論が無難でしょう。

たとえば身分・職業・人種・民族・文化・宗教・性別などを理由に不当な扱いをするべきでない、というのは今日の日本では当たり前だと思います。


少なくとも建前としては、通用するはずです。

(実際は随分違うと思うけど)





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人権問題と組織内ルールは別



何もかも平等に扱わないと、人権や権利に絡む差別になるのかというと、当たり前ですがそんなわけはありません。


個人なら購入物から友人関係から、自分の裁量が許す内容は好きに選びます。

外部に対して平等に…とかはありえない。

内部ルールは自分だけの世界なので、誰かと比べて平等も差別もない。


私的グループでも同じ

外部に対して平等に…はない。

内部でのルールはあるだろうけど、そこでも扱いが平等とは限らない。

(影響力のある人、運営する人、手伝いの多い人に多くの権限がある…とか)


不公平感や不満が無いにこしたことはないけど、実際はある。


その意味では組織も同様。

外部に対しても内部に対してもルールがきっかりしてないと問題が生じるケースが多く、けれどもルールに則れば問題や不公平感や不満が無くなることもなく、実際は必ず何かしらある。

合理性を追求すれば、全ての事象に接してその意向に沿うことは無理だから斬り捨ては生じます。ある程度は当たり前で、そうでないとやっていけません。


目的をもったNPOであるとして、それに沿わない無差別の慈善事業はできません。


「無差別で無いから差別だ」 言えば、上記の①や②に照らせばそうなのだけど、権利や人権に絡めた③の差別になるのかぃな…と言えば、普通はそう思われません。



また、組織で決定権のある人が、無能な人材と有能な人材の声をきれいに拾って反映させてたら、組織は効率的に回りません。(パレートの法則って、ありますよね)


できれば広く声を集めたほうが好ましいにしても、発言権の多さや採用率の高さは差異があって当然です。特定の会議に出席できる役職も、組織内部でルール化されていて、それに従うのが普通です。


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平等を目的化せず、ほどほどに


もちろん人種や宗教、性別などを理由とした差別は今日の日本では許されず、またマイノリティが多数からの抑圧に苦しまないで済む配慮は必要でしょう。しかし組織の合理的機能を損なう程に、何もかもの平等を志向する意味があるのかは、やや疑問です。


平等が目的化して合理性が阻害される世界で追及できる幸福は、あまり大きくないでしょう。

それよりも、平等や公平感の確保が、より合理性を拡大する範囲でバランスをとるべきです。


平等を目的にすると歪みを生じ、辛いです。

それよりも割り切って、優遇すべきは優遇するとの立場で気楽にやるべきです。


(バランスをとったうえで、ほどほどに…ということ。

教条主義で理想を叫んでも上手くいかないなら、それはさほど説得的でなく非合理ということです)




合理性と言う観点であれば、文化や伝統・慣例なども合理性に根差していると言えます。

あまり根拠が論理的ではなかったり、一見合理的でない伝統も意味があります。


それが現代社会で不満や不条理を恒常的に生み出したり、非合理的であると認識されれば改められて当然とも思いますが、伝統や慣例そのものに合理的な側面もあります。

染みついて身体化しているために効率的であったり、古い伝統ゆえに付加価値がついていたり。

もちろん変えるべきは変えれば良いのですが、社会構造の変化やテクノロジーの進歩で 「もはや時代に合わない」 ことを説得的に示しながら変えるべきです。


そして変化は基本的に生活範囲、日常領域に於いて求められるはずであり、非日常の伝統を(それがあっても困る人がいるのか不明なのに)否定することは無用な反発を生みます。



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犠牲はいつもある



差別がいつもあるように、犠牲もいつもあります。

自ら奉仕・寄付する場合もあれば、他者から明確に差別され犠牲として扱われることもあります。


何もかも平等であれという平等至上主義では、世の中は成り立ちません。

不均衡や犠牲があるから世の中が回ることも、あります。 (社会も、自然も)



良いとか悪いとか、それはそれで個々に判断されるでしょうが、とりあえずそれは置くとして犠牲はいつもあります。



見方によっては、息をしても食事をしても、それは何かの犠牲の上に成り立っています。

(我々は酸素を差別的に扱っています)






犠牲をテコにして合理的に目的を達成しようとすることは、普通にあるでしょう。

それ自体を否定しても仕方ありません。


しかし犠牲に対しては自覚的であるべきです。


何を払って(払わせて)何を得たのか、それによって何を失ったのか。



見えているのと、見えていないのでは、随分と違うはずです。