安保法案に於ける集団的自衛権の論議。
6月4日の憲法審査会で、与党推薦を含む憲法学者3名が「違憲」と明言したことで、そこが争点になりつつあります。
もともと飛ばされてた筋論に戻りました。
(当たり前の話)
ただし、右派と、リベラルでも三浦瑠麗さんなどが指摘するように、法解釈の議論よりも現実的な安全保障の議論が大事だろう、との意見も一理あるわけです。
私としては手続き論を重視する立場ですが、正直難しいところですよね。
だけれども、
「違憲だ」と言われて、
「それはそうだ、ならば改憲だ」 とぶち上げない右派は、何やってるんでしょう。
筋を通してるようで結局のところ筋論が飛んでしまった次世代の党に代表される極右勢力が、今回の法案を(過去も解釈改憲でオッケーだったからという理由で)なし崩しで認めてしまっているため、いまさら「改憲だ」と言えないのでしょうか?
ここくらいしか使い道がない政党だったのに、本当に使えない。
少し新聞を見ますと、
右派と左派が気持ちいいくらい食い違った見解を述べています。
読売は社説(6月6日)で
この要件(今回の安保)は、自国の存立を全うするために必要な自衛措置を容認した1959年の最高裁の砂川事件判決を踏まえたものだ。
国民の権利が根底から覆される事態に対処する、必要最小限度の武力行使は許容されるとした72年の政府見解とも合致している。
と与党を擁護。
一方の朝日新聞(6月6日)
「砂川判決」については、憲法学者の評価は「憲法解釈を変える根拠になるという説は聞いたことがない」(小林節氏)といった意見が大勢だ。
中略
憲法学者らが呼びかけた法案廃案を求める声明に、賛同した学識者は5日午後までに186人に上った。
とのこと。
押せ押せのムードです。
今は改憲か護憲でなく、「違憲」か否かが争点です。
そりゃ、そこで争えば左派のほうが勝つでしょうよ。
右派は土俵を変えないといけない。
で、最初に触れた 「…現実の安全保障どうするのよ」 という声が葬り去られて良いのかというと、そんなの良いわけが無いわけです。
なのでここは識者の言葉を借りて、他人の褌を借りて相撲を取る、虎の威を借りる狐的な論法を試みてみたいと思います。
のぶー の引用だけどな。(*´Д`)
アラゴだったかアゴラだったか忘れましたけど、どこかの研究所の池田信夫さん。
ツイッターでのキレ芸とブロック率の高さを、やまもといちろう氏にネタにされがちな人。
私もブロックされた。(*´∀`*) ↓経緯
http://ameblo.jp/lcsfelix/entry-11996519256.html
どうやらブロックされることで「ツイッター初心者卒業」らしく(やまもといちろう氏より)、私も箔がついて嬉しいやら楽しいやら喜ばしいやら。
しかし、のぶー氏の頑固爺的なキャラはともかく、言ってることは結構正しいかもしれない。
ということで、池田先生のご著書から怒られない程度に、こっそり引用させていただきます。
立憲主義は手段であって目的ではない
立憲主義とは、憲法の条文を守ることではない。条文は主権者(国民)の意志によって変更できるので、守る対象ではない。最古の憲法である合衆国憲法は27回も修正している。立憲主義の本質は「国のかたち」(constitution)にあり、それはイギリスのように条文にする必要もない。
(中略)
イギリスより絶対君主の権力が強かったフランスは競争に敗れたが、立憲主義を最大化したハンガリーも没落した。かつてオーストリア=ハンガリー帝国として広大な版図を誇った国家の最後のチャンスは、1458年にマーチャーシュ1世が即位したときだった。彼は貴族と地主の寡頭政治を廃止して大学教育を受けた官僚を配置し、貴族の私兵を解散して国王直属の「黒軍」を設置するなど、国家の近代化につとめた。
しかしハンガリーでは古くから立憲主義が確立していたため、国王の改革はつねに議会の反対に直面した。マーチューシュ1世が死去すると貴族は特権を取り戻し、黒軍を大幅に削減し、税負担を70~80%減らすことに成功したが、黒軍は対トルコ戦争で壊滅した。フランシス・フクヤマはこう結論している。
中央政府の権力に対抗できるほど強く、団結し、武力も備えた市民社会があっても、政治的自由が達成できるとは限らない。また国家権力に厳格な法的制限をかける立憲主義的な取り決めがあっても、必ずしも政治的自由は得られない。ハンガリーは中央集権を弱めることに成功したが、その結果、目前に迫る外敵から自国を防衛できなくなった。(『政治の起源 下』P.181)
立憲主義は国のかたちを守る手段であり、目的ではない。守るべき対象は国民の生命・財産であり、憲法がそれにそぐわない場合は改正することが立憲主義だ。自衛隊が憲法に違反していると思う人は、それを禁止する憲法改正を提案すればいい。「戦争をなくすために軍隊をなくそう」というのは「犯罪をなくすために警察をなくそう」というのと同じ倒錯である。
引用終了 (戦後リベラルの終焉 P58~61より)
最後の例えは…少し一眼的かなと思いますが。
(※
軍隊があることで起こる戦争もある。また、軍事に回す金があるなら争いの原因となる貧困を解消することも、ひとつの合理的な考え。
なので池田氏の例えはひとつの常識としては良いが、軍拡への歯止めが平和のためにならないとまですると、やや暴論になってしまう。)
とはいえ、例えにツッコミを入れたいわけじゃありません。
全体的な内容には、説得力があります。
朝日読売の法律論云々の議論も良いけれど、私としては池田氏のような議論を経て、きちんとした手続きも踏まえたうえで、改憲の是非を問うべきなのでは…? と思います。
「違憲か否か」、または「手続き論」の話から、「改憲か護憲か」という本来の筋にしたほうがいい。
(今の筋が悪い与党のやり方を見直すことで、論点を法律論から安全保障の実質的議論にしましょう、ということ)
国連の集団安全保障が(中露の拒否権で)機能しない事を考えれば、米国を軸とした複数国の同盟による集団的自衛権で、疑似的な集団安全保障の態勢を確保するのが妥当でしょう。
日米の関係が、今までの(米国側の)片務的なものから実質的な同盟に近くなれば、それはフィリピン等も含めた対中国同盟の道筋をつけることになります。
振り回され遠心力のついた斧を受け止めるより、振り回されそうな今の段階で回転の内側から力を加え止めたほうが、危険を回避する手段としては適切でしょう。
南シナ海での中国の横暴を食い止めることは、日本を守る事に繋がります。
こういうのは別に隠す機密でもなく、見る人が見れば誰でも分かる政府の意図。
国民にハッキリそれを伝えて改憲の是非を問えないのであれば、右派も安倍政権もタカ派路線なんて捨てればいいと思うのですが…。