みなさま、こんにちは。
ふじこです。
さて。
昨日は「いただきます」をしました。
今日は「ごちそうさま」をしましょう。
現代のように交通や流通の発達していない時代、
食材は、いろんなところへ行って、それこそ走り回ってようやく手に入れてくるものでした。
だから、「御馳走」と書くのです。
身内の恥を晒すようですが、幼い頃、親戚の家へ遊びに行って、一緒にご飯を食べることがよくありました。
ある時、その家の子どもの「ごちそうさま」に対して、母親は「おそまつさま」と言っていました。
またある時は、「今日はごちそうじゃなかったから、ごちそうさましないね」とも言っていました。
私は子どもながらに、なんてこと言うんだろう、親もなんで叱らないんだろう、と思いました。
子どもでしたから、それがなぜかを言葉で説明することはできませんでしたが、明らかにおかしいということは、直感的に感じていました。
我が家はお世辞にも裕福とは言えない家庭でしたが、食事に関しては恵まれていました。
恵まれていると思わされていた、と言った方が正しいかもしれません。
というのも、
祖母の口ぐせは、
「うちは食べ物があたわる家や。ありがたいねぇ。」でした。
現に、神棚やお仏壇へのお供え物は欠かしませんでしたし、そのお下がりを私たちもいただいていました。
祭祀や法会の際には、お宮さんやお寺さんから、お下がりをいただくこともありました。
ご近所から、農作物のお裾分けをいただくこともありました。
そしてなにより、家族で囲む食卓がありました。
両親は共働きで夜遅いこともありましたが、祖父母が近所にいてくれましたので、「孤食(こしょく)」になることはなかった。
母や祖母が作る料理は、どれも美味しかった。
たとえそれが質素なもの、素朴なものであっても、
”粗末”だなんて発想は、私にはなかったのです。
だから、「おそまつさま」という、
作った側の謙虚さの現れかもしれない、
ともすれば常套句として聞き流すような言葉にも、過剰に反応したのかもしれません。
今日も元気で食事ができる。
その食事でまた元気にがんばれる。
それ自体が「ごちそうさま」だと、潜在的に思っていたから。
やはり、
「ごちそうさま」も、
「いただきます」と同じく、
大自然、生命、生産者、作ってくれた人
への感謝に他ならないのです。
「いただきます」と「ごちそうさま」は、対の言葉。
ありがたく唱え、
今日も豊かに過ごしましょう。
結びまでのお付き合い、ありがとうございます。
ではまた次回。
ごきげんよう。