みなさま、こんにちは。
日本のこころを伝えるマナー講師
彌榮家(いやさかや)代表の加野房枝です。
先日、デパ地下であったできごとについて、お話したいと思います。
車椅子の女性が、近くを通りかかった店員さんに
「すいませーん」
と声をかけていました。
が、店員さんは聞こえなかったのか、光の速さでスタスタと立ち去ってしまいました。
その様子を見ていた私は、他に店員さんがいないか近くをぐるっと回ってみましたが、誰もいない。
レジの店員さんもみんな忙しそうです。
女性のところに戻って、お声をかけさせていただきました。
「なにかお手伝いできること、ございますか?」
女性は少し驚いたご様子で
「えっ よろしいんですか…?
じゃあ…じゃあ…申し訳ないんですけど…
そこの◯◯バターを取っていただけますか?」
女性が指差したのは、座った状態からは手の届かないところにある、(美味しいと定評のある)バター。
私「あ、これですか?
一番手前のでよろしいですか?」
女性「はい、大丈夫です!
本当にすみません。助かりました。
ありがとうございます!」
私「いえいえ、全然、全然!」
車椅子を押してレジまでお連れしようかと思いましたが、女性が見事なコーナリングでレジまで向かわれたので、そのままお見送りしました。
私は、バターを取ってお渡ししただけ。
なのに、女性は丁重に頭を下げて感謝の言葉をおっしゃってくださいました。
後になって、せっかく自分は手が届く立場だったのだから、より賞味期限の長いものを取ってさしあげればよかったな、とか、
店員さんを探す前にお声かけしていれば、お待たせせずに済んだのに、とか、
色々考えてしまいました。
そして、どうかご遠慮なさらずに声をかけていただきたいな、とも思いました。
私のような「いつでもウェルカム♪」な人間も近くを歩いていますし、
誰かのお手伝いをしたくてウズウズしている方も、世の中にはたくさんいらっしゃいます。
数年前は、私自身がもどかしさを感じている立場でした。
乳がんの術後数年間は思ったように腕(利き腕側)が上がらなくて、欲しいものにも手が届かない。
そんな様子を怪訝な顔で見られたりもして、涙が滲んだこともありました。
今思えば、ひょっとしたら怪訝な顔ではなくて、
「あの人どうしたのかな?」
「何か手伝えないかな?」と思ってくださっていたのかもしれません。
だからこそ、間違ってもいいから、声をかけてほしいな、と思うのです。
日本人は考えすぎて遠慮しすぎて動けない、とよく言われます。
もちろん、思慮が深いのは良いことです。
そんな日本人を私は心の底から愛しています。
一方で、人のために反射的に動ける方がいらっしゃるのも事実です。
20年前、線路に落ちた方を助けようと、ご自身も線路に降りて命を落としてしまわれた韓国人留学生の方がいらっしゃいました。
そのご家族は、今でも留学生をサポートする活動を行なっているといいます。
なかなかできることではありません。
命を落としてまで、というつもりはもちろんありませんが、
本当に苦しい時は、ほんの少しの優しさが本当に心に沁み入るものです。
そして、その感謝をずっと忘れることはありません。
たとえそれが偽善であっても、嬉しいのです。
心が救われれば、偽善だろうがなんだろうが関係ありません。
(もちろん、人を陥れるのはだめですけどね)
一方で、私は「弱者」という言葉が嫌いです。
そもそも熟語という短い表現形式は、ややもすると言い切りとか呼び捨てのような、配慮の足りない言い方に聞こえがちです。
弱い立場の者、助けを必要とする者を政争の具にするような思想は言語道断。
闘病中、療養中に街中で「弱者救済!」と叫んでいる政治家(政治屋?)を、冷めた目で見ていました。
政治に関しては是々非々の立場でいたいと思っていますが、
現首相が所信表明で掲げた
「自助、共助、公助」は的を射ていると思います。
まずは「自助」それが難しければ「共助」そして「公助」というのは、その通りだと思います。
「私はこんな立場になったんだから助けてもらって当然」と開き直る人もいれば、
「こんな立場になってしまった上に、こんなことを言ってしまってよいのだろうか」と遠慮しすぎてしまう方もいらっしゃる。
そこへ周りが
「少し元気になったらこれをやってみましょうか」
とか
「何かお手伝いできることありますか?」
と
少しの勇気を持って声をかけられれば、ますます優しい世界になっていくのでは、と思った出来事でした。
そして、高校時代に聞いたお話も思い出しました。
キリスト教の学校だったので毎朝礼拝があったのですが、宗教科の先生がボランティアや人助けについて、こうおっしゃっていました。
「してあげる、のではありません。
させていただく、のです」
私は神道と仏教の信者ですが、宗教の考えは根っこで繋がっていることを、この学校で教わりました。
自分が乳がん闘病時、
「〜〜してあげる」
と言われると、いちいちカチンときていました。
「してあげる、ってなに?!」と、キレたこともあります。
でも、
「してあげる、なんて思ってるなら、してくれなくてもいい!」とは言えませんでした。
実際にしてもらえなくなったら困りますし…
私のは打算的な考え方だったかもしれませんが、
現に生活の中で誰かの助けを必要としている方々は、日々そんな思いをしておられるかもしれません。
そして、
「一日一善」という言葉もありますが、
「させていただく」のは気持ちの良いものです。
バスで通院していた時、満員で座れない状況の中、マスク姿で手すりにもたれかかっている私に小学生の女の子が近づいてきて、私の腕をちょんちょんと突っつき、自分の座っていた席を指して
「座ってください」と言ってくれました。
すぐ降りる予定だったので、ありがとうとだけ言いましたが、
(ちょんちょんされたのが術側の腕だったので痛かったけど笑)
その気持ち、小さな女の子が振り絞ってくれたかもしれない勇気、
それらがなにより嬉しかったですね。
ひとりひとりの日々のちょっとした心がけで、
もっともっと優しい世界に。
ではまた次回お会いいたしましょう!
ごきげんよう。
「日本のこころを伝えるマナー講師」
加野房枝が運営する彌榮家(いやさかや)の
ご挨拶とサービスのご紹介
[ホームページ]
[マナーのネットショップ]
[note(マガジンとエッセイ)]
https://note.com/fujikoism/magazines
SNSと姉妹ブログもよろしくお願いします!
[Facebook]
[Instagram]
[ちょっとこころがかるくなる(かもしれない)言葉を集めたブログ]
[お相撲ブログ]
[メールマガジン配信受付中!]
日本のこころ、歳時記、日々のちょっとしたマナーなどなど、お役立ち情報をお届けいたします。
下記に空メールをお送りくださると自動登録されます。
お問い合わせはメールでお願いいたします