個人的な、余りに個人的な -6ページ目
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げんかつぎ

たまにやっている気はするが、その事柄にまつわるアイテムや気候、場所、その他条件が、あまり頭に思い浮かんでこない。


少しばかり、何かしらジンクスみたいな傾向を思い浮かべはするが(オレンジ・赤系の服を着ていた方が上げ潮調子、成田空港ではあまりいいことが起こらない、、)、よく考えてみると必ずしもそうでない。


確かに、何度か続くかもしれないが、いつかはそんなことが破られている。


昔、地元友達で家からパチンコ屋に向かうまで、赤信号に遭遇しないと、負けたことがないという奴もいたが、後に聞くとそうでもなかったらしい。


たまたま、ある印象深い出来事があり、それを、その時の何かしらの条件で結び付け、記憶しているからかもしれない。


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・ ユニクロの赤の靴下(穴が開きかけている方は左)


・ 駅までは散髪屋の前でなく一本裏通り


・ 試合前に梅のおにぎり


・ 試合会場までモーツァルトのレクイエム



一週間前のことを少々、顧みて今日も点取れるかなって、昨日の試合前に試行したが、結果は無得点。


まぁ、こんなものか。

日誌:9月9日(土)

朝から検見川でリーグ戦第4戦。

ようやく、今季初得点。
たまたまとか、レイアップみたいなシュートとか、色々言われようが、点は点。遠めからちゃんと狙いました。はい。
チームも3連勝。プレーオフに進出!よかった、よかった。


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帰りはチームメイトと駅前の王将へ。満腹定食を平らげる。

今日は何か楽しいこと、良いことあるかもしれないと、新宿をぶらつこうかと思ったが、試合疲れと防具の重さにカフェのみで断念。
それでもご褒美にと箱根行きのロマンスカーに乗車。
何となくそんな気がしていたが、案の定、寝過ごして厚木で辛うじて下車。
前から靴が欲しかったから買おうかと思ったが、急に億劫になり、相武台へ引き返す。
家に着くと、洗濯物を取り入れ、同時に防具・運動着を洗おうと思いきや、洗剤が足りないことに気づき、スーパーへ。
ビールとカットフルーツも合わせて買い、本屋で立ち読み。
カバーの絵と材質が妙に自分を惹きつけ「八月の路上に捨てる」を暫し読んだが、ビールのこともあり、適当に切り上げる。
どこからか虫の声が聞こえ、ひんやりと涼しくなった夕暮れ時、散髪屋を横目にそろそろ髪切らないと、なんて頭に手をやりながら思っているうち家に着く。
洗濯物をたたみ、ビールを飲みながら、野球をぼんやり観戦。
いつの間にか、まどろみ、いつの間にか、電気を消してベッドに入っていた。

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いつもと違うようで、違わない土曜日。

出来れば寝る前に本を読みたかったな。そうでなければ、雑誌のコラムの1つや2つくらい。

少々、睡魔に負けてしまった。

追憶:カブトムシ

先日のことである。久しぶりに遅くまで働いた僕は、疲れた足取りで駅の階段を下っていた。最後に差し掛かる手前で、ふと黒いものが目に入った。よく見るとカブトムシである。ただ、天寿を全うするのだろう、殆ど動いていない。

「ここは田舎であるが、初めて見た。近くにクヌギの木でもあるのかな」
驚きの気持ちと出来れば元気なカブトムシを見たかった残念な気持ちを持った。


カブトムシにはある思い出がある。

小さな頃、昆虫が好きだった僕は、家の裏の神社によく虫を採りに行った。ただ、場所は大阪市内、採るといっても蝉かカナブン、頑張ってカキミリムシ。そんな自分にとってカブトムシは遠い存在であり、一つの憧れだった。よって、どうしても手元においておきたかった。
どうしたか?
店で親に買って貰い、家で飼っていたのである(夏になると京橋のダイエーでよく売っていた)。
彼らはひと夏で死んでしまうが、番いで飼うと卵を産む。そして、土を定期的に、湿らし、交換してやると、それらは翌夏には成虫へ孵化をする。
最初は、元来の不精癖が祟り、水をやることをほったらかし、途中で全滅させることがあったが、そのうち慣れ始め彼らを飼い続けることになる。
何年か、孵し続けた頃だろう、始めは番の2匹でも、翌年以降は真面目に育てると結構な数となる。その数30匹近く。一つの虫かごでは入りきらないから、二つで、それでも結構ぎゅうぎゅう詰めで彼らを飼っていた。
そして、案の上、彼らは卵を産んだ。その数、100個近く。
「手に負えない」
翌年を考えた自分は、ある残酷な行動をすることとなる。
「裏の神社にカブトムシがいたのなら、こんなことをしてまで飼う必要がないし、いつでも採りにもいける。」
こんな言い訳を心に抱き、彼らを神社の境内に埋めた。周りにはクヌギやブナの木はないと知っていながら、、

彼らを放つ時、何だか悲しく、そして後ろめたい気持ちであったことは覚えている。


その時、中学1年生。昔の彼らに対する熱意も冷めていたのかもしれない。以後、彼らを飼うことがなかったし、現在まで例の神社でカブトムシを見かけたという話は聞いていない。

続 三丁目の夕日とカンボジア

少しばかり後話がある。


かの弟とは、少々一方的ではあるが、ある約束事をした。


最後の日、空港へバイクを走らせながら、彼は日本へ行ってみたいと言った。


自分は是非とも来て欲しいと率直に思い、また嬉しく感じ、少々興奮して喋った。


今は厳しいかも知れないが、10年後、20年後、何年後になるか分からないが、いつでも歓迎だと。働いていたら休みをとり、車でどこかに行こう、泊まるのは自分の家で構わない、、


後から考えると、調子に乗り過ぎた部分もあるが、

そんなことを話したのを覚えている。


同じ歳の彼には自分と同様に色んなところに行く機会があってもいいし、悩んでいる彼には人生を楽しんで欲しいと純粋に思った。


空港で彼と別れる際、アドレスを伝え、日本に来る時には是非、メールをくれと言った。


彼は頷き、快く受け取ってくれた。そして自分がロビーに入るまで手を振り、見送ってくれた。


---
彼は教師を辞めようと言ったものの当然のことながら迷っていた。

教えるという立場の誇りもあるだろうし、「子供が好きだから」という彼の言葉が印象的だった。


出来れば教師を続けくれて、将来日本に遊びに来てくれることを願う。


<終わり>


broher  

(無断だが彼は許してくれるだろう)


---追記---


●食べ物
カンボジア料理は、タイ料理みたいに辛くもなく、また独特の香料の味もなく、食べやすく、実際美味しかった。

日本人には合うと思う。


いつも思うんだが、食べる前に撮ることが絶対無い。

食欲という人間に備わった習性によるものなのか。。


food3  food2

アンコールビールも美味しかった。


●気候

思ったほど暑くなかった。30℃に達していないハズ。

夜は涼しいくらい。日本の方がよっぽど暑い(帰国してびっくり)。


ちょうど雨季であったが、いつも雨という訳でなく、結構晴れていた。

ただ、急に雨がひどく降り、暫くすると止むことが何度かあった。


それもまた楽しかった。


三丁目の夕日とカンボジア

以前よりアンコール・ワットを見たかったから8月の頭にカンボジアに行った。


アンコールワットの街シェムリアップで、移動手段をバイクタクシー(原チャを2穴できるようシートを伸ばしたもの)として、街で声をかけてきた男をハイアーした。


当初は彼が4日間、運転手をすることになっていたのだが、3日目から、自分よりいい仕事が入ったのか、彼の弟に急遽変った。


兄貴は英語が達者で、観光客慣れをしており、お金の交渉もしたたかであった一方で、弟は英語はあまり喋れず、また口数も少く、純朴な印象を第一に受けた。


その後、2穴しながら話をするうちに彼は自分と同じ歳で、小学校の先生をやっており、ちょうど夏休みで、今回仕事をしているとのことだ。

どうして先生なのにこんなことしている?理由は簡単だった。


「教師の給料は1ヶ月30ドルだから生活が苦しい」


カンボジアの物価は安いとは言え(多分1日1ドルあれば暮らしていけるだろう)、非常に少ないと感じた(因みに、自分は1日10ドルで彼らをハイヤーしている)。


この話にショックを受けたが、続きの話を聞くと更に大きくなった。


「教師を辞め、兄貴と同じように観光客相手のバイクタクシーをしようと考えている」


言い方が荒いかもしれないが、バイクタクシーなんて道行く観光客に声をかけ、通常の何倍の運賃を吹っかける、教師は将来のカンボジアを担う子供達を教育する職業、この話を聞くまではそんな考えでいた。


ただ、彼の話を聞くと、こんなことも言えず、またやめろとは言えなかった。

外国からの観光業に依存しているカンボジアの国の実情を垣間見、暫し、言葉が出なかった。



---

ところで、往路の飛行機内でちょっと前に流行った映画「Always3丁目の夕日」を見た。


図らずも心にぐっと来てしまい、ちょうどお絞りを配り来たシンガポール航空のスッチーもびっくりさせてしまうぐらい、目に涙を浮かべてしまった。


貧しいけれど、周りの人間と力をあわせ一生懸命に生きていく、心温まる戦後間もない日本の話。


今回のカンボジアを旅行して、確かにそういう人々の暖かさ、友好さ(カンボジア人同士よく話しをする)、生きていくことに対する力強さ、

そういう、浅薄な言い方になるが、この映画で描かれているものも感じた。


しかし、一方で、今回のカンボジア教師、おそらくお金の価値も分からないまま親に言われたのだろう物乞いする子供、地雷で手足を失った人達。


これらからは、このような暖かさ、奇麗こととしては決して言い包めることが出来ない、厳しい現実を感じたのも確かである(勿論、当時の日本にもあったのだろう)。


自分達には色々な悩みや問題があり、彼らに比べると些細なものであるとか、よくある、自分達は幸せな方、だからそんなことでくよくよするな、

とかそういう議論に持ち込みたくないし、必ずしもそうだとも思わない。


だた、世の中にはそのような状況で生きている人達もいる、そのことは心に刻んでおきたい。

フラれるのが悔しいから、、

昨日、28歳になった。


しかしながらあまり実感がない(ショックがない)。


というのは、いつからか、多分25歳から、年をとることに抵抗を覚えてから、

誕生日を迎える前に、正月になるとその年の年齢で数えることにしているからだ。


数え年ではなく、周年というか、1月1日から自分は1才老ける。

(だから定期券など年齢記入時によく間違う)


誰かに言われた。

「フラれるのが分かっている奴が、悔しいからフラれる前にフル態度に似ている」


確かにそういうところもある。


もう分かっている。どうこうしても、結末は見えている、見えているんだけど、

残念、悔しい、だからいっそのこと、言ってやる。


「28歳?そんなの知ってたよ。今更、何言ってんの」


まぁ、この歳の数え方もそう長くは続かないと思うが、

年をとることに何かしら抵抗を感じるうちは、続けていくのであろう。

恵比寿にて

昨日のことである。会社関係の用事があり、品川に向かっていた。


下北で乗り換え、渋谷に到着したまではよかったのだが、山手線の線路内に人が入ったらしく電車が一向に動かない。


渋谷で20分ほど待たされ、よくやく発車したものの、再び恵比寿で止まった。


車内アナウンスが入る。


「・・一度は線路から出たものの再度、進入した可能性があり、現場確認してます」


前日の遊び疲れと頭痛、そして休日にも関わらず仕事。自宅を出た時から疲労と倦怠を抱いていたが、このアナウンスで更に深まっていた。


迷惑を顧みず、馬鹿なことをする無神経さと非常識さ。

渋谷では当人に対する怒りが込み上げるばかりであったが、、


恵比寿では、休日に仕事して、これに巻き込まれている自分に対する嫌悪で一杯になった。

下らない。何やってんだろう、俺は。馬鹿は誰だ、俺だ。


そして、寧ろ、電車がこのまま発車して欲しくない、ずっと線路内にいて欲しい、、

そんなことさえ思っていた。


何か得体の知れない汚物が口から噴出してくる、そんな気持ちになった時である。



発車するとのアナウンス、そして、急に流れた恵比寿駅の発車メロディ。。


聞いた瞬間、笑ってしまった。そう、エビススビールの音楽。


思えば東京来たばかりの頃、このメロディを聞いて感動した記憶がある。

(あれ、これってエビスビールの音楽やん。ここは?恵比寿。。なるほど!なるほど!!)


その時の気持ちを思い出したか、そして、何か急に緊張がほぐれた。


音楽とは不思議な力を持っている。


「史朗君よ。そんなに苛立ちなさんな。まぁ、ゆっくりいきなはれ。」


鯛を持った恵比須さまがそんなことを言ってるようである。


この時ばかりは、僕は疲労や倦怠を忘れ、気を確かにすることが出来た。

今日、ふとしたことがあり、久しぶりに電話した。


聞きたかったことは一つ、誕生日はいつ?


突然の質問に少々、驚いたようであるが母は答えてくれた。


ついでに父、弟2人の日にちも聞いた。


「これからは何かくれるんかい?」 笑って話す母の声に少々、目頭が熱くなってしまった。


今日、しっかり頭に刻み込んだ。


その日になったらおめでとうの一言だけでも言おう。

花冷え

まさに今日のような日を言うのだろう。


久しぶりに朝は起き難く、帰りも寒かった。


駅から家に向かう道の脇には桜の木が何本かある。


家路に向かう今日、8分くらいまでは咲いているのだが、

時折吹き付ける冷たい風に枝が揺られているのを見て、 散ってしまいそうでヒヤリとした。


別に花が好きな訳ではないのだが、単純に散っては欲しくないと思ってしまう。


そう言えば、花見っていつやったっけ?


咲き誇った桜の下でしたのは、 入社直後の研修中に同期と小田原城でやった時かな。。


あれからもう3年が経とうとしている。早いものだ。

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