並木路子という歌手をご存知だろうか?
「♪あ~か~い~リンゴにくちび~るよ~せ~て~♪」毎年この時期になると流れてくるサトウハチロー作詞の「リンゴの歌」を歌った歌手である。
サトウハチローとは童謡「お山の杉の子」「ちいさい秋みつけた」等を作詞した言わずと知れた日本を代表する詩人、作家である。
戦災の焼け跡のラジオから流れる「リンゴの歌」が憔悴しきった国民に大きな癒しとなったのが当時空前の大ヒットとなった理由なのだという。
幼少時から私は軍歌のレコードを聴きながら激動の時代を生きた先人達のことを思い、一人涙を流す相当に変わった子供であった。
当然この歌は知っていたが実はあまり興味はなかった。
というのも私の中では「軍歌」と「戦時歌謡」は全くの別物。
戦争を肯定し、戦意を昂揚させるかのような「作り物」の「戦時歌謡」には全く興味がなく、またその多くをサトウハチローが作詞していたため、「リンゴの歌」が終戦後の歌だといっても素直に受け入れることが出来なかったのである。
「ダンチョネ節」や「ズンドコ節」のように誰が作ったかわからない作者不詳の曲が当時の私の涙腺を緩めた。
おそらく軍隊の中に音楽的才能のある無名の兵士が居て、明日出撃で死ななければならぬ、やむにやまれぬ想いを歌に託し、それが生き残った兵士の間で歌い継がれてきたのだと思う。魂の叫び、これ以上の真実があろうか!
並木路子に話を戻す。
後年、私は並木路子の波乱に満ちた半生を知ることになる。
浅草で生まれ、松竹歌劇団で子役デビューした彼女は、戦争で父と次兄を亡くす。
手をつないだだけだったが、心の支えだった初恋の立教大生も学徒出陣で特攻隊に志願し、南の海に散った。
松竹歌劇団からの収入で何とか母との生活を支えていた彼女も、20年3月10日の東京大空襲に見舞われる。
母と手をつなぎ逃げまどい、隅田川に飛び込むが、後日,母の遺体と対面することになる。母の身元が確認できたのは遺体のポケットに入っていた彼女の給与明細からだったという。
天涯孤独になり落ち込む彼女に「リンゴの歌」を歌わせるのは酷だ、と誰もが思ったが、作曲した万城目正は多くの戦災孤児の前に彼女を連れて行き、「この子達のために歌って欲しい」と諭したという。
それから50年、阪神淡路大震災の最大の被災地である神戸市長田区へ並木路子は慰問に訪れた。
「焼け跡に再びリンゴの歌が流れた」という見出しが当時の新聞紙面を飾った。
そして2001年、自宅浴槽で孤独な死を迎える。私の母親が亡くなった1年前であった。
並木路子がもし生きていたら、真っ先に東北の被災地へ飛んで行ったに違いない。
私たちは三たび、瓦礫の中から「リンゴの歌」を聴くことが出来た筈だった。
戦災の記憶を思い起こし、今回の震災を乗り越えて行かなければならないと思う。
並木路子の人生は特別なものでもなく、当時としてはどこにでもあった話なのかも知れない。
しかし私たちは彼女が生きた時代の人たちのことを忘れてはならない、また、責任を持って後世に伝えていかなければならない。
多くの先人達がかけがえのない命を散らした。その礎の上に今の満ち足りた私たちの暮らしがあることを未来永劫忘れてはならないのである。
「♪あ~か~い~リンゴにくちび~るよ~せ~て~♪」毎年この時期になると流れてくるサトウハチロー作詞の「リンゴの歌」を歌った歌手である。
サトウハチローとは童謡「お山の杉の子」「ちいさい秋みつけた」等を作詞した言わずと知れた日本を代表する詩人、作家である。
戦災の焼け跡のラジオから流れる「リンゴの歌」が憔悴しきった国民に大きな癒しとなったのが当時空前の大ヒットとなった理由なのだという。
幼少時から私は軍歌のレコードを聴きながら激動の時代を生きた先人達のことを思い、一人涙を流す相当に変わった子供であった。
当然この歌は知っていたが実はあまり興味はなかった。
というのも私の中では「軍歌」と「戦時歌謡」は全くの別物。
戦争を肯定し、戦意を昂揚させるかのような「作り物」の「戦時歌謡」には全く興味がなく、またその多くをサトウハチローが作詞していたため、「リンゴの歌」が終戦後の歌だといっても素直に受け入れることが出来なかったのである。
「ダンチョネ節」や「ズンドコ節」のように誰が作ったかわからない作者不詳の曲が当時の私の涙腺を緩めた。
おそらく軍隊の中に音楽的才能のある無名の兵士が居て、明日出撃で死ななければならぬ、やむにやまれぬ想いを歌に託し、それが生き残った兵士の間で歌い継がれてきたのだと思う。魂の叫び、これ以上の真実があろうか!
並木路子に話を戻す。
後年、私は並木路子の波乱に満ちた半生を知ることになる。
浅草で生まれ、松竹歌劇団で子役デビューした彼女は、戦争で父と次兄を亡くす。
手をつないだだけだったが、心の支えだった初恋の立教大生も学徒出陣で特攻隊に志願し、南の海に散った。
松竹歌劇団からの収入で何とか母との生活を支えていた彼女も、20年3月10日の東京大空襲に見舞われる。
母と手をつなぎ逃げまどい、隅田川に飛び込むが、後日,母の遺体と対面することになる。母の身元が確認できたのは遺体のポケットに入っていた彼女の給与明細からだったという。
天涯孤独になり落ち込む彼女に「リンゴの歌」を歌わせるのは酷だ、と誰もが思ったが、作曲した万城目正は多くの戦災孤児の前に彼女を連れて行き、「この子達のために歌って欲しい」と諭したという。
それから50年、阪神淡路大震災の最大の被災地である神戸市長田区へ並木路子は慰問に訪れた。
「焼け跡に再びリンゴの歌が流れた」という見出しが当時の新聞紙面を飾った。
そして2001年、自宅浴槽で孤独な死を迎える。私の母親が亡くなった1年前であった。
並木路子がもし生きていたら、真っ先に東北の被災地へ飛んで行ったに違いない。
私たちは三たび、瓦礫の中から「リンゴの歌」を聴くことが出来た筈だった。
戦災の記憶を思い起こし、今回の震災を乗り越えて行かなければならないと思う。
並木路子の人生は特別なものでもなく、当時としてはどこにでもあった話なのかも知れない。
しかし私たちは彼女が生きた時代の人たちのことを忘れてはならない、また、責任を持って後世に伝えていかなければならない。
多くの先人達がかけがえのない命を散らした。その礎の上に今の満ち足りた私たちの暮らしがあることを未来永劫忘れてはならないのである。