2006年に日本画家の小宮山俊が鬼籍に入り17年の歳月が過ぎた。振り返ってみれば、彼との出会いのきっかけは1993年の美術年鑑に掲載されていた、ヒマラヤの景色を描いた「タムセルクに至る」という題の作品だった。その作品は前景に「ドッコ」というネパール独特の背負子を担って山岳地帯を往来するネパールの人々を描き、背景にはクーンブヒマールの秀峰タムセルクを描いたものだった。

生来怖いもの知らずの性格ゆえ、小宮山氏に手紙を出した。手紙には年鑑に掲載されていた作品への印象と、個展の開催の案内をいただきたいという内容だった。数日後、小宮山氏からアトリエへの来訪を誘う手紙が届いた。几帳面な人らしく、千葉市から佐倉方面に向かう国道一六号線からアトリエまでの経路を書いた手書きの地図も同封されていた。

訪問した時期は1993年5月と記憶している。天戸車庫の入口から左手の雑木が茂る小道を200mほど進むと「虚草舎」という看板を掲げた白い瀟洒な建物があった。そこが彼のアトリエだった。アトリエは千葉市の北、花見川区長作町の弥生が丘丘陵の左手の山裾にあり、千葉市内とは思えない自然豊かで郷愁感が溢れる地に建てられていた。生前も没後もこのアトリエには何度も訪れた。小宮山氏の人柄や作品に魅せられたことは言うまでもないが、長作町の郷愁を誘う雰囲気に惹かれたのも理由の一つだった。アトリエのインターホンを押すと、当時70歳代半ばと思しき長身の先生が出迎えてくれた。建物の中は、玄関を入った部屋が事務所で、その奥に20坪ほどの広いアトリエがあった。アトリエの中は左手に無数の岩絵の具が棚に並べられており、右の壁面には六曲一双の描きかけの作品が立てかけられていた。事務所とアトリエの中ほどに二階のギャラリーに通ずる階段があり、階段を昇り切ったところが一室目のギャラリーで、その奥に二室目のギャラリーがあった。

二階に案内され一室目のギャラリーに入ると、正面の壁面に100号の二曲半双の作品が展示されていた。山嶺左上に黄白色の光り輝く満月とその月に照らし出されたヒマラヤの岩峰クスムカングルを群青で描いた「月出ず」という作品だった。人は強い感動を受けたとき、それを表現する言葉を失うことがあるが、その絵との出会いはまさにそんな体験だった。恥ずかしながら出会いから37年経った今もその作品の素晴らしさを的確に表現することが出来ない。出来ないのだが、微塵の破綻もない構図と天然岩絵の具の群青の深遠な美しさは、とても人の手が生み出したものとは思えなかった。優れた芸術作品は、鑑賞者の心を激しく掴むと共に、理屈抜きで参ったといわせる力を持っているように思う。他方で芸術家の視点から見れば、優れた作品には、画家のモチーフを描かずにはいられない、止むにやまれぬ想いが込められているのだろう。その強い思いが薄い作品は、画家の名声や優れた技術でオブラートをかけたとしても、時間という冷酷な審判の中で、薄皮を一枚一枚はぐように核心部分が姿を表すものである。「月出ず」はあらゆる観点から疑う余地のない名品であったし、今もその印象は変わっていない。私と「月出ず」との対面の様子を見ていた小宮山氏は、声を掛けることもなく静かに傍らで佇んでいた。考えてみれば、そんな呆けた状態の私に黙って付き合う忍耐力もある意味で感動すべき人柄だったと思う。

この作品には数奇な後日談がある。1994年4月2日美術篤志家の斎藤規子氏が「美術を通じて公益に資したい」との意志を受けて、親戚筋の会社経営者と彫刻家の建畠覚造氏が、1970年代以降の現代美術品を展示する私立美術館「斎藤記念川口現代美術館」を開館させた。「月出ず」はこの美術館に収蔵された。余談なのだが、当時この絵には購入希望者がついていた。しかし川口現代美術館の強い収蔵要請に加えて、美術館であれば大勢の人に鑑賞いただけるという理由から、美術館への収蔵を選択したという話をしていた。しかし、開館から5年後の1999年3月、美術館は事情により無期休館となり「月出ず」は行方知れずとなった。休館後の絵の行方を知りたかった私は、管理団体に作品の所在を問い合わせたが、その行方を辿ることは叶わなかった。

それから16年の歳月が流れた2015年、日本と中国国営企業の共同出資会社の社長として中国に赴任していた私に、小宮山氏の娘さんから、美術館の清算人から「月出ず」が返却される旨の知らせがあった。数か月後、中国の国慶節に日本に帰国した私は再会への募る思いもあり、自宅に戻らずに、空港から作品を保管されている娘さんの会社を訪ねた。恋した絵との22年振りの再会だった。この絵は今も娘さんのギャラリーに飾られており、心が疲れた時に拝見させてもらっている。そのうちに売りますと言ってくれることを期待しながら。

月出ず

唐草曼荼羅

石楠花の季

パタンのアマ

筆者と月出ず