以前NHKの日曜美術館に犬塚勉という画家が紹介されたことがある。絵好きのはしくれのつもりであったが、やはりつもりはあくまでもつもりでしかなく、犬塚氏の名前も作品も番組を見るまで知らなかった。放送後に色々な方が、SNSを通じて語っているので、私の能天気な感想など聞く価値もないであろうから、是非読者諸氏は他の記事やブログを見ていただくとよいと思う。


しかし、私なりに違う角度でこの人の作品や遭難について伝えたい事もあるので、あえて投稿することを許してもらいたい。


彼の番組を見た後どうしても本画を見たくなり、これまで彼の作品が展示される美術館を調べて都合3度追っかけた。

展示室で真っ先に目に入ったのは「縦走路」という作品だった。北岳(南アルプス国内第2位の高峰)の正面登山ルートである大樺沢ルートを上りつめた尾根の縦走路を描いた作品である。作品を見た瞬間犬塚勉という作家の執念に戦慄を覚えた。縦走路に転がるガレ場の石ころをひとつひとつ丁寧に描き切った作品だった。いったいこの画家は何万回キャンバスに筆を運んだのだろうかと想像して背筋が寒くなる想いがした。

それから他の作品を見て行きつつ、その恐ろしいばかりの戦慄は消えるどころか、どんどんその思いを深めていくばかりだった。来館者の中に「美しい」とか「心が安らぐ」という感想を述べている方もいるが、私は精緻に丹念に執拗に描ききる画家の執念のようなものに心臓をつかまれるような錯覚を覚えるとともに、たとえようも無い恐怖感を感じた。

犬塚は植物・岩・水・木など写実技法で緻密に描いているのだが、通常の写実とは違うのだ。「何がどう違うのだ」と聞かれても困るのだが、人や動物以外の対象物に精神性を見出すことが出来る人は少いと思っているが、さらにそれを被写体を通して描き切れる人は私は知らない。「アンドリューワイエス」という作家に近い匂いを感ずるがそれとも違う。犬塚の作品の多くにモチーフ(主題)らしきものが無いのである。いや正確に言うとあるのだ。それは画面の構成要素である草木や雑草の1本1本がそれなのである。

失礼な話なのだが、この作家の画面を例えば半分とか四分の一に分割して額装してもそれぞれが立派な作品として独立するはずである。草原等を描いた作品もあるので試しに画面の半分を紙で隠して残った画面に視線をやってみてほしい。何十分割にしようとひとつの絵画作品として成立するはずである。彼の作品の多くに主題がなさそうで、実はあると言った理由は、彼がキャンバスに入れた筆は、たとえそれが1mmの草木や石ころであっても、彼は描く対象そのものから見えざる生命の根源のようなものを感じ取っているように思えるのである。だから何十分割にしようが幾百万ものモチーフが全てに画面に存在しているので、それぞれが独立した作品として成立するのである。こういう作家に今まで私は出会った事がなかった。

最後に見た作品は「暗く深き渓谷の入り口」という作品だった。この作品の前で、それまで感じていた作者に対する戦慄の想いは確信に変わった。この人の心は、見えるものから見えないものの核心(魂の核心)へと誘われて行き、とうとうこの絵に辿り着いてしまったのだと。

この絵を描く途中、奥様に「どうしても川の水がうまく描けない、もう一度水を見てくる」と言い残し谷川岳に向かい不帰の人となっている。作者の未完の絶筆作品を凝視していたら無意識に涙が頬をつたってしまい、他の来館者の手前どうにもばつが悪く外の渓谷の風景に目をやり、なんとかその場をしのいだのである。この作品のタイトルは、「暗く深き渓谷の入り口」だが、私が確信をもって想起したタイトルは「暗く深き魂の入り口」だった。(犬塚さん深謝)

さて話は長くなるが、私も登山をやっていたので、彼が遭難した谷川岳については経験もあるので、この山と彼の遭難へのプロセスを、あくまでも推定と前置きしつつ解説したいと思う。

彼が命を落とした谷川岳は標高は2,000mにも満たない山である。しかしながら急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、地理的に中央分水嶺に位置するため天候の変化が激しく、他の山に比べて遭難者の数が群を抜いて多いことで有名である。

1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名の死者が出ている。この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録となっている。ちなみに世界最高峰のエベレストのそれが178人であるから、いかに谷川岳のそれが多いか理解いただけるものと思う。また、一旦遭難すると救出が難しい山でも有名で、1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断し、遺体を収容するという遭難事故もあった。こうしたところから、谷川岳は登山家の中では「魔の山」とも呼ばれているのである。

彼が谷川で遭難死した際に選択したルートは沢登りのルートと推定され、明らかに一般の登山者が登坂するルート一線を画している。何が一線を画すかと言うと、沢登りのルートというのはロッククライミングの技術が要求されるルートであり、しかも滝の水で洗われた滑りやすい岩場が間断無く続く水との闘いのルートなのである。

彼の遡行したであろうルートはあくまで推定だが、恐らく群馬側から苗場プリンス方面に向かい、三国トンネルの7km 程手前の相俣(最も遭難した場所まで全て相俣だが)を右に入った所に川古温泉がある。その川古温泉を起点に赤谷川本谷を遡行し、途中左の金山沢と笹穴沢と呼ばれる滝また滝の難所ルートから平標山を目指したものと思う。その登坂の途中で悪天候に遭遇し結果として遭難したのだろう。

「9月なのに」と思われる方もいるだろう。しかし山の天候は平場のそれと違い、朝快晴であったものが帰路ガスや暴風雨に変わり、1メートル先も見えなくなることは良くある。彼の遭難時の状況を記した文に、「悪天候に遭遇した」とあるから、登坂ルートに延々と連なる滝の水も増水したことだろう。そうした刻々と悪化する状況に身の危険を感じ、消耗しきった体力を振り絞りながら、右のエビス大黒の頭か仙倉山方面の尾根へと退避しようとした筈である。何故なら谷川岳の経験がある人は、悪天候の際にエビス大黒の頭と仙倉山の稜線を結ぶ中間地点に避難小屋があることを知っているはずである。赤谷を遡行する人は殆どの人が平標山を目指すと思う。しかし彼がエビス大黒の頭に近い尾根で亡くなったという事は、おそらく彼は自分自身の生命、家族への思いを馳せ平標山への登坂を断念し、何とかこの避難小屋にたどり着きたいと思ったのでは無いだろうか。

彼の生き抜きたいという想いは、その迷走ルートをみると胸に突き刺さるように伝わってくるのである。しかし彼は単独行だったから、その退避行のプロセスで著しく体力も損耗していったのだろう。また、夏山といえど山は標高が上がるごとに気温が下がるし、更に悪天候で風が出ると体感温度も低下する。その結果低体温症に襲われ最初はがたがた寒気による震えの症状が出るが、そのあとは酩酊状態となり意識が薄れていくのである。エビス大黒の頭に近い稜線で力尽きその短い生涯を閉じた。享年38歳だった。彼が最後まで離さなかったカメラには赤谷本谷の滝の写真が残されていたという。

未完の絶筆「暗く深き渓谷の入り口」を、彼はどのように完成させたかったのか、私には到底想像出来ない。

 

縦走路

梅雨の晴れ間

ひぐらしの鳴く

林の方へ

暗く深き渓谷の入口A・B