今年2022年は中森明菜さんのデビュー40周年にあたります。各所で話題に取り上げられ、テレビでも全盛期のコンサート番組が放送されて人気を呼びました。ご本人は既に幾年も表舞台から遠ざかっていますが、SNSを始めたようでたちまち何万人もの人がフォローしました。「また歌ってほしい」と待望する声がある一方で、あまりにもいろいろありすぎた半生を気遣って「どうか無理せず、穏やかに過ごしてほしい」と願うファンも少なくありません。

 

中森さんが活躍していた頃、私はそれほど関心を持っていませんでしたが、前述のコンサート番組を見たら1985年までに出したヒット曲はほとんどよく覚えていて、我ながら感心してしまいました。その代わり有名な「DESIRE」や「難破船」の記憶は全くありませんから、その頃に私自身が音楽シーンから離脱したのでしょう。日々多忙になっていた上、ひどい人間関係(今ならば悪質ハラスメントで提訴ものです)にショックを受けていました。

 

このブログでは初めて中森さんの楽曲を取り上げます。「スローモーション」「セカンド・ラブ」「飾りじゃないのよ涙は」など好きな曲もいくつかありますが、リアルタイムで最後に聴いていた「SAND BEIGE -砂漠へ-」を取り上げます。

 

中森明菜さんを語る人のほとんどは、彼女を人気アイドルのひとりと位置づけて松田聖子さんと対比させる視点を取ります。1970年代・1980年代のアイドルにとても詳しいオーストラリア在住のcherry cheekさんは松田聖子さんを「太陽の女王」、中森明菜さんを「月の女王」と形容しています。松本隆さん、川原伸司さんなど作者・プロデュースサイドの人たちもその見方をされています。それは決して誤りではありませんし、異議を唱えるつもりもありませんが、松田聖子さん的タイプとは目指す音楽とその表現の方法、それのみならずそもそものたたずまいから違っていると思います。チェリーさん流の形容をするならば「月の女王」にふさわしい人は河合奈保子さんでしょう。河合さんの楽曲にはデビューした時から「月」にちなむフレーズやタイトルがとても多く、後年自ら作曲した作品も「ハーフムーン・セレナーデ」「十六夜物語」と、月がモチーフです。テレビ音楽番組で松田聖子さんとデュエットする際も自らはハーモニーの下のパートを歌い、聖子さんの華やいだ声を引き立てていました。

 

では、中森明菜さんは何と形容されるでしょう。あくまで私見ですが、「大地の女王」だと思います。全ての人や生き物が暮らす大地にしっかり根を下ろす安定感と、風雨や陽光(紫外線)など地上のあらゆるものをぼろぼろになるまで受け止め続けることにより生じる儚げな面を同居させつつ、人間が持つ感情の機微を天才的に表現できる人です。その意味において中森さんはちあきなおみさんに代表される「歌謡曲歌手」の後継者という見方も可能でしょう。1982年同期デビュー組はとりわけ仲良くしていて、「レッツゴーヤング」では先輩石川ひとみさんの”お姉さん”的な優しさが醸し出すふんいきに安心しつつ、堀ちえみさんや石川秀美さんたちといつも嬉しそうに出ていましたから「アイドル」の一員ではあったのでしょうが、それだけにはとどまらない人だと思います。「SAND BEIGE -砂漠へ-」はそんな中森さんのキャラクターをある面で代表する作品とみなせられます。

 

「SAND BEIGE -砂漠へ-」は許瑛子さん作詞・都志見隆さん作曲で1985年6月にシングル盤が発売されました。私の手元には当時買ったレコードが今でもあります。歌詞カードにはメロディー譜と「アナ アーウィズ アローホ NILE(私はナイルへ行きたい)」「マァッサラーマ(さようなら)」と、アラビア語の解説がつけられています。さらに「'85 中森明菜グランプリ」というプレゼント企画のビラが同封されています。名前には読みがなが振られていて、当時は珍しい名前だったと窺えます。脱線になりますが、中森さんの隠れた功績のひとつに「菜」の文字の人名漢字としての人気を高めたこともあげられます。私は以前大規模な学会の要旨集に目を通す機会を持っていましたが、2000年代後半あたりから学会で発表する大学生・院生に「菜」の字がつく名前を持つ人が急速に増えました。現在の40歳以上にはほとんどいないでしょうが、20代・30代には結構多いと思われます。近年生まれた子にも「陽菜」などの命名は人気ですね。

 

なかなか曲のお話に行きませんね。文章の進め方が上手でなくて申し訳ありません。本題に戻りましょう。許さん・都志見さんとも後年たくさんのヒット曲を手がけましたが1985年時点ではまだほとんど無名で、「SAND BEIGE -砂漠へ-」は実質的な出世作でした。中森さんの楽曲制作はデビューから3年近くワーナー・パイオニア社のディレクター、島田雄三さんが手がけていましたが、島田さんは既に実績がある、いわゆるヒットメーカーの作家に頼むのではなく、誰も知らないような作詞家・作曲家を発掘して世に出すことを心がけていたとお話されています。「ワーナーは業界では下位の会社でしたから、他社と同じことをしているうちは絶対に勝てない。」(書籍「ヒットソングを創った男たち」より)

 

島田さんによれば、中森さんは時間があればレコーディングしていたいというほど歌うことが好きだったが、1985年に入ったあたりから「レコーディングに対する集中力が落ちてきた」ので、「SAND BEIGE -砂漠へ-」以降は後輩の藤倉克巳さんに任せたとのこと。島田さんはインタビュー記事を読んでいても相当気性が激しく、それを表に出すことをためらわないお方とうかがえます。それは中森さんも同じですから、二人の目指すところが一致しているうちはとてつもない力が発揮できる一方、一度意見の違いが生じてすきま風が吹くと一気に険悪化してしまいます。他の世界でもよくあるお話です。島田さんは取り返しがつかなくなる前に身を引く選択をしました。

 

藤倉さんが許さん・都志見さんの作品を抜擢したのも「島田イズムの継承」を意識したがゆえでしょう。一方、許さんは作詞の勉強をしていた頃に知り合った都志見さんからエスニック調の曲を渡されて、詞をつけるように頼まれて書いた作品とお話されています。都志見さんは曲が完成したら中森さんスタッフによる楽曲募集に申し込む心づもりでした。都志見さんがまずAメロ部分を作ってそれを電話で許さんに伝えると、許さんは「サンド・ベージュ」というタイトルを思い浮かべます。続いて都志見さんがサビを作り曲が完成すると、許さんは砂漠の写真集や旅行ガイドに目を通してイメージを膨らませました。許さんにとって本格的な作詞は2作目でしたが、都志見さんのデモテープを聴いて「大好きになった曲」と感激しつつ3日で書き上げました。都志見さんに電話して詞を読み上げると黙って詞を書きとめる音だけが聞こえる。ダメかなと思ったが、都志見さんは驚きと感激で言葉を出せなかったと述懐しています。許さんの師匠だった康珍化さんにもほめられて、「これからはぼくのライバルだよ」とまで言われたと記しています。

 

都志見さんがワーナーに応募したところ、藤倉さんから許さんに電話があって「最終候補に残っている」と伝えられ、2ヶ所変えるようにお願いされました。

 

「ジャスミン 私を夕闇へ誘う」→「翼を広げて 火の鳥が行くわ」

「崩れる魂 支えてお願い」→「崩れる私を 支えてお願い」

 

だそうです。そして採用されてこの曲は世に出ました。

 

中近東イメージサウンドの歌謡ポップスは「異邦人」(作詞・作曲・歌:久保田早紀、1979年)という”決定版”が既にあります。80年代半ばの流行りというのでもありません。それでも藤倉さんが選んだのは「1985年、世界に飛び立つ明菜」という島田さんが立てて残したコンセプトに合致していて、リオのカーニバルを取り上げた前作シングル「ミ・アモーレ」(作詞:康珍化、作曲:松岡直也)との連続性をアピールできること、および戦後の”ハワイ憧憬”以来の系譜を引く、カナリア諸島、セイシェル、マイアミなど「西洋主導のリゾート感覚」を前面に出しつつ海外の風物を取り上げていく松本隆さんのメソドロジーへの対抗軸になりうると評価したことによるのでしょう。

 

「SAND BEIGE -砂漠へ-」の詞の解釈については、Re:minderのサイトで優れた論考が掲載されています。最初に「Sand」は英語、「Beige」はフランス語と指摘されています。要するに「ブルー・シャトウ」と同じく、日本歌謡曲ならではのタイトルということですね。しかし「ベージュ」は既に黄褐色を示す語として日本人に定着していましたから、ここではそう気にかけるまでもないでしょう。日本語、アラビア語、英語、フランス語が並ぶ歌詞はまさに”無国籍的”ではありますが。

 

この論考で最も重要なポイントは「火の鳥」をキーワードとしているところです。前述したように「火の鳥」は許さんが最初に書いた詞には登場していません。藤倉ディレクターのアドバイスで後から入れられた言葉です。私は原案の「ジャスミン 私を夕闇に誘う」のほうが細やかで、そのかおりと主役の境遇がただちに想起できるので好きですが、藤倉さんの指示によりこの詞は2桁ほどスケールが大きくなりました。さらに

 

ジャスミン 私を夕闇に誘う

地の果ては 何処までか 答えてはくれないの

 

 

翼を広げて 火の鳥が行くわ

地の果ては 何処までか 答えてはくれないの

 

では「答えてくれない」の主語が違ってきます。原詞で「答えない」のはジャスミンのかおりに誘われて様々な思いが立ち昇ってくる自らの無意識と解釈できます。対して完成版で「答えない」のは火の鳥という具体的なアイコンです。様々な答えの可能性がある”自分の心”から、絶対的な存在の”火の鳥”へ…。藤倉さんのアイデアによってこの詞は一本太い筋が通りました。

 

この詞はリズム感にも優れています。

「アナ アーウィズ アローホ」というアラビア語自体、意味は解説をつけないと理解できませんが、きれいな音韻を持っています。「SAND BEIGE」→「ヴェール」、「窓」→「マァッサラーマ」も心地よい韻律です。2作目で松本作品にも比肩しうるリズム感を持つ詞を書けるとはすばらしい才能です。

 

2番サビ「アナ アーウィズ アローホ NILE」は、最後の「ナイル」が明らかに字足らずです。「サンド・ベージュ」は都志見さんが書いたメロディーにぴたりとあてはまっているだけに対照的です。しかしこの字足らずは絶妙な余韻を残しています。計算づくでは決してできない「フック」でしょう。

 

他方、藤倉さんがもう1点指示した「崩れる魂」はそのままのほうが意味が通りやすいと思います。藤倉さんは許さんに電話した際「魂ってのはどうかなという人がいるので」と気にしていた様子ですが、この詞の主役が真に欲しているのは肉体的な充足感よりも精神上の充足感と思われるからです。現代ならば問題視されなかったかもしれません。

 

過酷な自然の中、精神的にも肉体的にも疲れ切った主役は「夢に包まれた子供に返って笑ってみたいの」と願います。このフレーズは「聖母たちのララバイ」と呼応しているかのようです。岩崎さんがエジプトでこの曲を披露したというエピソードも知られていますが、調べてみたら1986年のことで「SAND BEIGE -砂漠へ-」の後でした。しかし主役はひたすら甘える子供に返りきることさえできず、まだ「あなた」への未練が残り続ける、”業”のような哀しさでこの詞は終わります。

 

メロディー譜を見るとホ短調になっています。7音すべて使い、ペンタトニックやヘキサトニックの形ではありません。これによりいわゆる「しみったれた」曲調ではなく、乾いた世界観をイメージできます。Bメロの♪砂も風も乱れて~で3連符を3回繰り返し、3拍子風に進めているあたりが巧みです。Aメロ・Bメロはメロディアスである一方、サビに入るとほとんど音程が動かなくなり、8分音符が横一線に並んでいるように見えます。サビで転調することなくマイナーで、詠唱のような進行を取っているのは都志見さんが中森さんの表現力をイメージできていたからでしょう。

 

編曲は井上鑑さんが担当しました。ナイアガラソングブックに代表されるポップでドリーミーな、アメリカンオールディーズの音作りとは対照的なようで、深いところでつながっている音づくりをしています。中近東イメージですからダルシマー風の音をメインに据えて、Aメロでは鈴の音を入れて主役の旅路を強調しています。最大の特徴は2番サビの「アナ アーウィズ アローホ NILE」のフレーズで、シンセサイザーの「ヒューッ」という音をかなり強めに入れているところ。これにより星が輝く砂漠の夜と神秘性が鮮明に表現されています。萩田光雄さんが「異邦人」の編曲を担当した頃にはおそらくまだなかった発想で、1980年代前半の5年間はサウンド作りの面においても長足の進歩を遂げた時代ということが改めてわかります。

 

 

以上いろいろ書いてきましたが、最後に中森さんの歌唱を鑑賞しましょう。私は当時歌謡番組をほとんど見せてもらえない境遇で、この曲も専らレコードから録音したテープで聴いていましたから、歌っている映像を見るのはほぼ初めてです。今さらながら圧倒されました。

 

 

本ブログではこの記事が今年最後の書き下ろしです。今年もご覧いただきありがとうございました。

皆さまどうぞよいお年をお迎えください。

 

<参考資料>

・書籍「ヒットソングを創った男たち」(濱口英樹・著、シンコーミュージックエンタテインメント、2018年)

・Webサイト「作詞家/許瑛子のホームページ」アーカイブ(Wikipedia「SAND BEIGE -砂漠へ-」の項目からのリンク)