異世界に転生して一日目が終わろうとしている。真夜中にふと目が覚めた私は、何気なく横で眠っているヴォルフの顔を見た。よく眠っている。小さないびきをかいている。起きている時はずっと困った顔をして悩んでいたのに、心配事があっても寝付きが良く、深く眠れる性質らしい。少々不安を感じるが、朝まで悩み続けて疲れた顔でいられるよりは気楽というものだ。もしかしたら、私の出産に立ち会ったことと、慣れない赤子の世話で疲れていたのかもしれない。
お尻が湿った感じがしてむずむずとする。かゆいというより気持ち悪い、不快感が私のお尻一帯を支配している。きっと寝ている間に小便をしたのだろう。さすがに耐えられないと思い、手を動かすが上手く動かない。大人のように器用に腕や手を動かすことが出来ない。頑張ってばたばたと腕や足を動かして御湿を脱ごうとするが、ひっくり返った亀のようにじたばたと腕と足が動くだけだ。肘も膝も思うように動かない。指も握るか開くかしか出来ない。これは一人ではどうすることも出来ないと察し、諦めて私はヴォルフを起こすことにする。しかし、ヴォルフ、と口にしたつもりが
「あー」
としか言葉が出てこない。もう一度、ヴォルフと声を出すが、
「あー」
やはり、この言葉しか出てこない。口もうまく動かない事に気づいた。この時、私は初めて自分の状態を思い知ることとなった。
私は、精神は大人だが、身体は赤子そのものだ。顎や関節の筋肉が赤子そのものなので、言葉を話すことすら出来ないのだ。
先ほどの声量程度ではヴォルフは起きる気配がない。眠っているヴォルフには申し訳ないが、お尻の不快感が気持ち悪くて仕方がない。私は耐えられなくなって、大声で泣いた。
するとヴォルフは「うぅん」とうなり声を上げたかと思うと、私に背を向けて寝返りを打っただけだった。私はその行動を見て、愕然とした。それはまるで、子育てを手伝わない父親そのものだったからだ。赤子が直ぐ隣りで泣いているというのに、自分の睡眠を優先する。赤子が泣いているのだから御湿くらい換えてくれてもいいじゃないかと、ワンオペ育児を強いられた時の母親の気持ちを思い知ることとなった。こうなったら、意地でも起こしてやろうと私は声を張り上げて泣く。するとドアが開く音がして、部屋にガングが入ってきた。ガングは私を抱き上げると
「おぉ、おぉ、どうした。お腹が空いたのか。それとも御湿か?」
と私をあやしながら聞いてきて、御湿を確認する。
「御湿が汚れていて起きてしまったのか」
と、ガングは慣れたように私を机の方へ連れていく。机上にはタオルと畳まれた御湿と、桶が二つ置かれていた。ガングは私を机上のタオルの上に寝かせると、手早く御湿を換えていく。汚れた御湿は桶に入れ、私の下をきれいにすると、綺麗な御湿を私に着ける。さすが子育てを経験したことがある男は違うと感心する。ヴォルフの奥さんはきっと子育てで大変な思いをしただろう。
お尻の不快感が無くなると、すっきりとした気分になった。私は御湿ごときで何も出来ないことを思い知らされた。これから先のことを考えると気が遠くなる。人間の子供がハイハイや立ったり出来るようになるのは1歳くらいからだろう。育児経験のない私には何歳で何が出来るようになるのかはわからないが、少しでも自由に動けるようになるには、身体を鍛えることが最重要事項だと悟った。身体を自由に動かすことが出来なければ、私はスタートラインにすら立っていない。私の目標は飽く迄も悪役令嬢になることだ。早く動けるようになって、どうにかこうにか貴族にならなければならない。悪役令嬢になるためには綿密な計画を立てなければならない。前途多難だがやるしかない。やらなければ、異世界に転生した意味がないのだ。
ガングは私を寝かしつけるために、私をゆっくりと揺らしながら、聞いたことのない子守歌を歌ってくれている。ゆっくりとした流れだが、どこか耳に残る旋律で、しわがれた声で歌っている。私はガングの子守歌を聞きながら、転生一日目の今日のことを振り返った。
私は仮の名前だけれどルドヴィークという男児の名前を与えられた。母が死に際に譫言のように呟いたことから、他人の目を欺く為という名目でガングに名付けられたのだ。地球にいた時の自分の名前は思い出そうとしても思い出せない。けれど、名前とは子供にとって親からの初めての贈り物だと私は思う。だから、私にとってルドヴィークという名前は、名前を分からぬ母からの最初で最後の贈り物になるわけだ。だが、ルドヴィークという名前が気になって仕方がない。本当に生まれた子に付ける予定の名前だったのだろうかと疑わずにはいられない。もしかしたら、母の目には既に私は映っておらず、走馬灯の中に現れた誰かの名前を呼んだ、という可能性はないだろうか。例えば、生き別れた兄弟とか、もしくは私の父にあたる男の名前かもしれない。否定はできない。母が死に際に呟いたのだから、何か意味があると思える。だが、母の目は明らかに影があった。憎しみの籠った目だ。私が恐怖を感じたあの目は、確かに私を見ていたと思うのだ。
ガングの言葉を信じるのならば、この世界では出産するまで子供の性別は分からない。ならば、母が男児が生まれると確信していた可能性は低い。その場合、どちらが生まれても大丈夫なように、男児と女児の両方の名前を考えておくのが普通ではないだろうか。彼女の意識がはっきりしていたのなら、私に女児の名前を付けたはずだ。地球では男児とも女児とも受け取れる名前が存在する。だが、ガングたちはルドヴィークと聞いて、はっきり男児と限定しているところを加味すると、この世界ではルドヴィークという名前は確実に男児の名前だ。女の私が男児の名前を名乗る……男装した少女が好きな男性と繰り広げるラブロマンスも嫌いではない。むしろ好きである。だが、私がこの人生でやたいのは飽く迄”悪役令嬢”なのだ。男装した悪役令嬢なんて、妄想する分には楽しそうだが、私の単純な脳みそでは、そんな複雑なラブロマンスなんて想像できないし、そんな人生計画を練るのは一苦労だ。複雑怪奇な設定の悪役令嬢なんて、私が演じられる訳がない。何度も言うが、私がこの人生でしたいのは”単純な”悪役令嬢なのだ。学園生活の中で、婚約者が才能あふれる平民の少女に惹かれ、その両者の恋愛をサポートするかの如く意地悪をする。そして悪事が白日のもとになり、私は国を追われ第二の人生を送るか、処罰か処刑される。つまりは、身を挺した”キューピッド”、それが”悪役令嬢”だと私は思っている。
私は、本当にルドヴィークという名前を名乗っていいのだろうか。
そして、私を産んで死んでしまった母親のことを思うと、少し寂しく、悲しく思う。負の感情を込めた目で見られたことも、気懸かりではあるのだが、一番理解できないのが母の行動である。母が死んでしまったのは産褥熱ではないだろう。私を産んで直ぐ死んだということは、出産に体力を使い果たした結果なのだろう。何度も言うが、私は子供を産んだこともないし育てたこともないので、憶測でしかないが。
不思議なのは、どうして母がこの村に一週間以上滞在していたのか、ということだ。ヴォルフの憶測では、母は運悪くこの村で産気付いてしまったということだったが、本当だろうか。いくらこの世界で生まれてくる子供の性別がわからないとはいっても、生まれてくる時期は分かるだろう。母が人以外の生物との子をお腹に宿したということなら、人間とは出産時期が不明でも不思議ではないが。そもそもこの世界には人間以外の人型の生物はいるのだろうか。ヴォルフ達は私を見ても特に何も言わなかったので、自信は無いが私は人間のはずだ。出産予定日がずれるということもないわけではないが、もし出産時期がずれていたとしたら、私は未熟児で生まれてくるだろうし、一週間もあればこの村ではなく実家とか医療施設が整った町へ向かうことも出来たはずだ。わざわざ私が生まれるまでこの村に留まっていたのは何か理由があるはずだ。それに、母が平民ではないというヴォルフの推測。その根拠となるものは母が身に着けていた衣服にある。母が身に着けていた衣服が上等なものだったから、というものだが、本当にそうだろうか。平民でも金持ちの商家や金貸しを生業にしているような人ならば、高価な物をもっていてもおかしくないのではないだろうか。この世界にきて一日目の私には、この世界の金銭感覚もわからないわけだが。
誰も母の名前を知らない。母の名前さえ分かれば、それを足掛かりに母の実家を頼ることが出来ただろう。ヴォルフ達を困らせることはなかっただろうし、万が一の確立でヴォルフの推測通り平民ではなく貴族だったかもしれない。しかし、それは母が実家から縁を切られていない場合に限るかもしれないが。
ガングはこの国の東部の人間は、女性がルト村を訪れることは危険なことだと身分に拘らず周知されていると言っていた。ならば、母の出身はこの国の東部ではないことは確実ではないだろうか。ルト村が東部のどの位置にあるかまでは地図を見なければわからない。母が何を思い、何を頼って、この村で私を産んだのだろうか。母は自分の身分を証明するような物は身に着けていなかったようだ。結局、母について分かっているのは、おそらくこの国の東部の人間ではないことと、ある程度金銭的に余裕のある家柄の出身ということだけだ。母に向けられたあの闇に染まった眼差し。母のことを知ることが出来れば、少しは気持がわかるかもしれない。ここにきて、私は初めて母のことを知りたいと思ったのだ。
そして、明日会いに行く呪いの魔女アルエラとは一体どんな人物なのだろう。ヴォルフは敵だと言っていたけれど、ガングは恐れているような素振りはなかった。魔女と言われると、黒いローブを着た老婆を想像しがちだが、これは白雪姫のイメージが強いためだ。私が見聞きした異世界に転生した物語に出てくる魔女は、子供と変わらない容姿をしていたり、妙齢の美人かもしれない。何故呪いの魔女と呼ばれているのかはわからないが、魔女がいるということは、この世界は魔法が存在する世界なのかもしれない。
魔法には憧れがある。地球には魔法なんて存在しなかったが、もし魔法が存在するならば、これほど嬉しいことは無い。ただ少し不安がある。私は地球から異世界に転生した身。私自身、魔法が使えるかどうかもわからない。使い方も分からない。もし、私が魔法を使えるのなら、悪役令嬢らしく闇属性とか黒魔法とかが使えたらとても嬉しいのだけど。とにかく、明日、魔女アルエラに会えるのは楽しみで仕方がない。
わくわくとした気持が胸を支配していたが、ガングの心地よい揺らぎと、ゆっくりとした安心できる子守歌に、いつの間にか私は眠りに誘われていった。
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▼▼ 投稿予定 -----------------------------------
悪役令嬢に憧れて 序章・4 ⇒ 5月予定。
