音楽は、薬か麻薬か | ラフラフ日記

ラフラフ日記

主に音楽について書いてます。

映画『セッション』を観た。

レンタルで何本か借りて、「じゃあこれも借りようかな」という感じで、映画に関する情報とか評論とかまったく読まずに観た。今話題の『ラ・ラ・ランド』と同じデイミアン・チャゼル監督の作品だということは事前に認識したけど。

面白い!と思った。音楽好きじゃなくても、楽しめる映画なんじゃないか。けれど、何か気になった。そして、菊地成孔と町山智浩の評論(のやりとり)を知る。

その話をする前に、私はこの映画を観て、エレファントカシマシのドキュメンタリー映画やドラマ『ベートーベン・ウィルス』を思い出した。それと、自分が昔エレクトーン教室に通っていたときのことを思い出して、このようなスパルタ教育は実際にあるなぁと思った。だから、こういうスポ根的な要素が音楽にはないわけでないなぁ。

それと、音楽(というか、音楽業界のことになるのだろうか)の奇麗な部分だけじゃなく、嫉妬や妬み、屈辱や恨み、劣等感、トラウマ、そういう汚い部分も描かれているところが良いなぁと思った。でもそれは、『ドリームガールズ』にだって『ジャージー・ボーイズ』にだって『ストレイト・アウタ・コンプトン』にだって『バックコーラスの歌姫たち』にだって描かれているんだよね。

最後、主人公が「キャラヴァン」を一人で演奏しだして、それにバンドメンバーが続くんだけど、そのメンバーが主人公と苦楽を共にした…とかだったらまた違ったのかなぁ。そうじゃなくても、メンバーの動きというか。あ、でも、「孤独」を描きたかったのかなぁ。

私はこの『セッション』を「音楽映画」とは思わなかった。それよりも「ホラー」とか。しかし、もしこれが本当に「ホラー映画」だったら何も引っかからなかった気がするから、やはり「音楽映画」なのだろう…。

そして、菊地成孔と町山智浩の評論の話なのだけど、検索すればあると思うから、読んでみて欲しい。
ここではあくまで、それを読んで私が考えてしまったことを書く。(だから『セッション』の話はここで終わりとも言えるんだけど…)

菊地さんはこの映画を、

「この映画は最初に一発キツいのを入れるだけのワンパン映画である」

と評した。客が、最初に入った<良い一発>による「パンチドランキング効果」にクラクラきているうちに、適当で稚拙な脚本/物語が進み、エンディングに、取ってつけたような乱暴などんでん返しがあるだけの「粗悪なドラッグ」だと。(この辺は、菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評にも書かれています)

音楽による浄化と祝福は、お手盛りに過ぎず、「その物語を物語るに足るだけの音楽が鳴っていない」。ただ単に、<感動的な物語>の形式を踏んでいるだけ。それは、音楽がダメであることと脚本の稚拙さ、そして、それ以外の要素があるならば、

「監督自身がまだ、音楽に救われてないから」

だと思います。と書かれていた。(菊地さん「個人の推測」とした上で)

ここで私は思い出しちゃったんですよね。以前、菊地さんが『音楽誌が書かないJポップ批評』の対談でおっしゃっていたことを。(このブログに登場、引用3回目!笑)

「浜崎あゆみなんて、音楽家から見ると自分がのし上がりたいためにフォークとかロックとか手近にある音楽をやり散らかしてるだけで、きつく言えば、お前音楽ホントに好きじゃないだろって感じがするんですよ。でも安室奈美恵は「ああ、本当にヒップホップが好きなんだね」というか、音楽をやってて、その音楽によって自分も救われてる感じが伝わってくるんですよね」
(『音楽誌が書かないJポップ批評55 安室奈美恵「音楽・人・センス」』 2008年)


もう、まんまこれじゃん。またこれじゃん。
(この菊地さんの発言こそ、私に「パンチドランキング効果」を誘発する<良い一発>のようだ!笑)

(参考)
菊地さんの発言引用1回目: 大キライで大スキな関係
菊地さんの発言引用2回目: 終わりと始まりが重なるとき

『セッション』の話とは一緒にはできないかもだし、上記発言は 2008年掲載のものだけど、(菊地さんにとって)「浜崎あゆみ」もまた、「音楽に救われてない」感じがするのかなぁって、ちょっと悲しくなっちゃったわけですよね(笑)。

でもね、悲しくなる必要なんてないんです。悲しくなるということはどういうことか。
これは、浜崎あゆみが音楽に救われているかどうか、というよりも、私自身が(浜崎あゆみの)音楽に救われているかどうか、の話になってくるのかも知れません。

音楽は、薬なのか麻薬なのか。(あるいは質の問題か?)

私は、あゆファンの中に(と、一括りにできるわけはないし、むしろ少数派かも知れないし、何より私自身がってことではあるのだけれど)、「曲折」を感じる。

私は昔、同じアーティスト(浜崎あゆみではない)を好きな人から、「あなたは何もわかってない」というようなことを言われたことがある(大分はしょってます)。インターネット上で、名前も顔も知らない人からで、名指しではなかったのだけれど。
そういうことはよくある話で、バカにしたりバカにされたりするものだけど、そのときの出来事は自分にとって強烈だったんだなぁと、今になって思う。

浜崎あゆみの音楽は、そういった気持ちにアクセスしてくるものだった。

つまり、音楽が好きなのに、音楽から認めてもらえなかったような、音楽からはじき出されてしまったような、そんな気持ちに。

以前、浜崎あゆみの音楽のことを「音楽が魔法になり得なかった者たちのための音楽」と書いた。

(参考) 第5回 「あゆはロックだ」がロックじゃなくなってきた

でも、それって、矛盾してる。

「音楽が魔法になり得なかった者たちのための音楽」だなんて、矛盾してる。

だって、「音楽への恨みを音楽にする」だなんて大いに矛盾してるし、ともすれば「恨み節」になってしまうでしょ。(え?このブログも?笑)

私は前に「椎名林檎から浜崎あゆみに寝返った」と書いたけど、「椎名林檎への恨み」を「浜崎あゆみ」にぶつけてるのだとしたら、それはもう「椎名林檎への恨み」でしかなくなってしまうし、そんなのしょうもない。

そういった「曲折」を感じる。

ロミオとジュリエットじゃないけど、反対されればされるほど燃え上がるみたいな。じゃあ、反対されなければ燃えないのかっていう。

菊地さんの言葉を借りれば、「予期不安」あるいは「フラッシュバック」。「あゆはまた叩かれるんじゃないか?」という、「予期不安」であり「フラッシュバック」。

以前私は、浜崎あゆみは「インターネットと戦えるアーティスト」だったのではないかと書いた。だからこそ、「ゼロ年代を駆け抜けた数少ないアーティスト」になり得たんじゃないかと。でもそれは、「インターネットと共振してしまった」からでもあったのか。インターネットが宿した何かと、浜崎あゆみは共振してしまったのか。私が受けた傷に浜崎あゆみの音楽がアクセスしたように――。

(参考)
「空虚」か「リアル」か、浜崎あゆみ (前編)
「空虚」か「リアル」か、浜崎あゆみ (後編)

しかし、浜崎あゆみを嫌いだった私が浜崎あゆみに惹かれるきっかけになった、歌う彼女をたまたまテレビで見たときのことを思い出す。

それは、恐怖でも屈辱でもなく、それに対する恨みでも復讐でもなく、「浄化」だった。

刺激を食らって麻痺するのではなく、「癒されて」いくのを、「呪縛から解放されていく」のを感じた。

音楽は薬なのか麻薬なのか、という命題にぶつかるとき、宇野維正による浜崎あゆみ『A BEST』(2001年)のレビューを思い出す。

「何かを感じすぎてしまうことは、何も感じなくなってしまうことと紙一重だ――そんな凍りつくほど冷たい真実を浜崎あゆみは聴く者の心の奥底にポツンと落としてきた」

「あらゆる感情の致死量をはるかに超えた、劇薬のようなベスト」


感じすぎてしまうのか。感じなくなってしまうのか。

確かに、浜崎あゆみの音楽は私の傷に触れてきた。他の音楽では、なかなか触れることのなかった部分に。

でも、だからこそ、それは表裏一体で、音楽そのものも傷になってしまう危険性がある。浜崎あゆみの音楽は、それが欠点であるのかも知れない。

しかし、触れられなければまた、その傷はその傷のままそこにあり続けていたようにも思う。

や、もちろん、今だってその傷はあるのだけれど、だから私もこうやって書いているのだけれど、触れられなければもっと硬直していたような、そんな気もする。

そして何より、あゆの音楽に出会って、私が言いたくなったのは、「ほら見て!こんなに傷ついたんだよ!」だなんていう傷自慢ではなく、「傷つくことなんかないんだ!」とか「音楽は素晴らしい!」とか、そういうことなんだもん。決して「恨み節」を言いたいんじゃないんだぜ(笑)。

触れることで危険性はある。しかし、触れなければ届かなかった。

最近のあゆは、「トランス状態」を抜けてきてるように感じる。まぁ、本人は前から抜けてるのかも知れないけど、周りとか含めて。

「トランス状態」を抜けて、麻痺がとれてきたとき、どうなるのか。

『セッション』の最後、これが善なのか悪なのかわからない終わり方だったなぁ。

あの先に、音楽が鳴り響いていますように。

最後に、私がこの映画を観てまっさきに思ったことを書いて終わりにしたいと思います。

「キャラヴァン」って、チャラン・ポ・ランタンがライブでやる曲じゃん!