「空虚」か「リアル」か、浜崎あゆみ (後編) | ラフラフ日記

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「知り合いの男に聞くと、必ずや、『浜崎なんて誰が聞いているんだ』と言うが、中には『ブスでもあれほどに変身できる現代のメイクアップの性能を見るためだ』などと嘯く者もいるが、その目はギラついている。実際、化粧を落とした浜崎のほうが確実にきれいな顔をしているであろう。「誰が聞いているんだ」って、多分最も気にかけているお前が聞いている、と言ってやりたい。(中略)私が『浜崎あゆみを嫌いだ、という人たちばかりだ』という話を聞いても、実際に会って話してみると、(中略)「嫌いな」つまり浜崎が好きな人たちばかりなのである。(中略)『浜崎が嫌い』という発言などその程度のものである」
(『ユリイカ 2003年6月号』「浜崎あゆみ――うしろ向きデビット・ボウイー」谷岡雅樹)


現在放送中のドラマ『続・最後から二番目の恋』の主題歌が浜崎あゆみで、「ドラマは良いのに浜崎でぶち壊し」というように言ってる人がいて、突っ込まれると、「曲は悪くないんだけどね」と答えてるのをネットで見かけた。何じゃそりゃ。
やはり、谷岡氏の言うように、二つ以上の言葉で物語を綴ることが出来ず、全て二分法の中に当てはめることしかできないからなのだろうか。「文明」か「野蛮」か、「好き」か「嫌い」か、「空虚」か「リアル」か、「肉体」か「精神」か、「ロック」か「アイドル」か――。それ以外の言葉が聞きたいのに!

ただ言えるのは、前編で書いたように、浜崎あゆみがインターネットと戦えるアーティスト、空虚と戦えるアーティストだったからこそ、変な話、「安心して叩けた」のだ。

しかし、私はそこに今、「絶望」を感じている。

前述した、ドラマ主題歌の話も「唯一主題歌だけ納得いかない!」だの「オープニングテーマ以外最高!」だの言ってる人の大半が(しかもなんだか楽しそう)、それがどんな曲であっても「浜崎あゆみ」というだけでダメなんだろうなぁということである。そんなところに「希望」なんてあるか?
そういう人はファンでも何でもないのだから気にしなければ良いと思うかも知れないが、私は同じような絶望をファン(自分も含めて)にも感じることがある。なんて言うのかなぁ、「実体のない何か」に捕まるというか、ドラマ主題歌への「実体のない言葉」のように。これじゃあまるで自爆していくようだ…。

そしてこれは、「浜崎あゆみ」という虚像によって引き起こされてるんだなと思った。

浜崎あゆみには、「『浜崎あゆみ』という虚像を自ら作って自らそれと戦う『あゆ』」という図式があったと思う。しかしそこには、「浜崎あゆみ」と「あゆ」がどんどん乖離していくという危険性も孕んでいたのだ。

浜崎あゆみのコンサートは、例外もあるけど、本編はMCなしでほぼ段取り通りに進み、アンコールであゆがTシャツ姿で出てきてMCをする。そのときの彼女は「虚像」から解放されていて、ああ、みんなこの「あゆ」に会いに来てるんだなぁと思った。空虚ではない、肉体的な彼女に。

空虚な虚像を自ら作って自らそれと戦う。自作自演。
前編でツッコんだ “だったらパーティやらなきゃいいじゃん!” である。そんなところが「子供だまし」に見えるかも知れないが、それが浜崎あゆみの「戦い方」だったのだ。そのためには何にだってなるし、全ては空虚のその先にあるもののために――。

「ぎりぎりの、限りなく本物に近いニセモノを出すことに徹しきっているように見える。媚びているくせにツッパリで売る」

谷岡氏が書いていることはおそらく当たっている。

浜崎あゆみには常に相反するものが同居している。矛盾している。

谷岡氏が指摘している通り、浜崎あゆみが茶髪から金髪へ、ドンドンと真似のしにくい派手でケバイ方向にシフト変換し続けるしかなかったのは、デビッド・ボウイやマドンナの戦略とは違って、「追い込まれて残りの選択肢を選び出し、次々カードを繰り出している苦しい作業」の結果だったのかも知れない。

しかし最近やっと、その「絶望」に一筋の光が差し込んできたように思う。

浜崎あゆみのコンサートではみんなアンコールの「あゆ」に会いに来てるのではないかと書いた。実際、アンコールになってTシャツ姿のあゆが出てきたとき、「やっとあゆに会えたーっ!!」という感じがした。本編の間中ずっと彼女はそこにいたのにおかしな話である。

しかし、一昨年のカウントダウンライブあたりから、それがちょっと変わってきた。まぁ、ツアーに比べてカウントダウンライブはそこまで作り込んでないというのもあるが、最初からあゆに会えた気がした。MCがなかったからか、いや、MCがなかったにも関わらず、本編とアンコールの差があまりなく、ずっとあゆに会っていた感じがした。
昨年のカウントダウンライブではそれがもっと顕著になって、もうあゆが出てきた瞬間からあゆだった。「浜崎あゆみ」と「あゆ」の乖離が長い時間をかけてやっと埋まってきたのだと!

私は思った。
いつからだろう。2009年の『NEXT LEVEL』くらいからか、あゆは「浜崎あゆみ」という虚像の牙城を切り崩していたのだなぁと。プライベートのことも色々あった。でもそれも含めて、ここにきてやっと「浜崎あゆみ」という牙城を崩せてきたんじゃないのかなぁって。

そう思ったら、“カリスマ性がなくなった” “つまらなくなった” これ全部良いことだと思えてきた。我ながらおめでたい。

そう思ったキッカケが、何より、前述のドラマ主題歌である浜崎あゆみの新曲「Hello new me」だった。

まだドラマのオープニングでちらっと聴いただけだが、流れてきた瞬間、「うわっ!ブリッコ!」と思った。でもそれがとても「肉体的」だった。ごく初期、デビュー当時に近い歌唱、言ってみれば「ロックになる前のあゆ」。肩の力が抜けてて、今まであゆの新曲を聴いてきたときとはちょっと違うソワソワ感。私はそこに「希望」を感じた。

色々書いてきたが、谷岡氏は浜崎あゆみに精一杯のエールを送っているのが伝わったし、映画『ブレイキング・グラス』も観たいと思った。谷岡氏は「TO BE」の歌詞がとても好きだという。

わかるんだよ。これを書き出すと収拾がつかなくなってしまうが、浜崎あゆみはとびきりの「美人」だから(異論は認めません!笑)、おまけに「ボディが持つメッセージ性」(『CDは株券ではない』菊地成孔)まで持っているから、例えば、こんな歌。

<あたしは可愛い 有名スタア
 男はみんな あたしを口説くの
 どいつもこいつも踏み潰したわ
 あたしはサイテーな女>
(チャラン・ポ・ランタン「サイテーな女」2012年)


こんな歌を歌ってみて欲しいって、そんな気持ちは私にもある。(谷岡氏はそういうことを言いたかったんじゃないかも知れないが・・・)

しかし、そうは問屋が卸さない。歌はまだまだ続いていく。

あらゆるものがデジタル化していく中で、浜崎あゆみが「空虚」の中から「肉体性」を獲得したのなら、それはとても大きなことなんじゃないかなと思っている。わからないよ、これからどうなるかは。だけど・・・。

しっかし、前編でリンク貼ったブログ(の別記事のコメント欄)にも書かれていたけど、浜崎あゆみは作品史がそのまま自分史になってしまう不思議なアーティストだと。それはまるでドストエフスキーかジョン・レノンかと。そういうアーティストに向けられる批評というのは、ハードルが高くなるのだという。だって前編・後編含めて、この記事書くのめっちゃ時間かかってるもんな!