「空虚」か「リアル」か、浜崎あゆみ (前編) | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

『ユリイカ 2003年6月号』に掲載されている、

「浜崎あゆみ――うしろ向きデビット・ボウイー」谷岡雅樹

を読んでから、その衝撃が今も続いている。

わかる!わかる!でも・・・というのと、これが 10年以上前に書かれたものだということにショックを受けている。ここから 10年以上も経ってるのにまだ変わってないのか? もしくは、10年以上経ってもまだ解明されてないのか? というような衝撃に。

“結局何が言いたいのかよくわからない” “伝えたいことなんて何もないのだろう”

浜崎あゆみに対して、私もそう思っていた。はっきり言って、「空虚」だ。だから苦手だったし、怖かった。
<いつも強い子だねって言われ続けてた>と歌ったところで、聴く者に癒されたと錯覚を起こさせはしても、「相変わらず強いフリをしなければイケない場所に居はしないか」という谷岡氏の指摘はおそらく当たっている。

しかし・・・

それに続く言葉を私はずっと探している。

そう、肝心なことを見落としている。

浜崎あゆみはその「空虚」を良いものとは決して思っていないということだ。その証拠に、浜崎あゆみはちっとも楽しそうではなかったではないか。
「空虚」な歌なんて、たくさんある。それでも、「歌が好きなんだなぁ」とか「楽しそうだなぁ」というのが伝わってくれば気にならない。「空虚さ」は見えてこない。

浜崎あゆみの割と最近の歌で、「Party queen」という曲がある(2012年)。みんなで集まってパーティで「かんぱ~い!」とか歌ってるのだが、この曲をライブでやったとき、途中で音がふっと消え、急に淋しげになって、“I am the lonely queen” とか歌いだすのだ。それからまた “party queen” に戻るのだが。
だったらパーティやらなきゃいいじゃん!とツッコミたくなる。そんなところが浜崎あゆみにはある。

“浜崎あゆみには言いたいことなどないのだろう” “空虚だ”

それもわかるのだが(かつては私もそう思っていた)、浜崎あゆみは(そしておそらくファンも)自分が空虚であることはわかっていて、それでいながらそのままで良いとも思っていなくて、本当はそこから脱しようとしていたのではないか。
おかしな話かも知れないが、空虚さから脱しようとしたがために「空虚さ」が浮き彫りになったのではないか。

言いたいことがないのではないか?と言う人には、おそらく「空虚さ」しか見えていない。そのことを考えるとき、「サイレント・マジョリティ」という言葉を思い出す。言葉にしなければ(できなければ)、「言いたいことがない」と同じにされてしまう。浜崎あゆみにはそこに潜む問題が見えていたのではないか。
見方を変えれば、言いたいことを理解できない人が「言いたいことがない」と片付けてしまっているとも言えるわけで、谷岡氏は「そう主張している人間自身の曖昧さも問われないで済む隠れ蓑」と書いているけれど、逆に浜崎あゆみはその「隠れている人」を外に出したのではないか。

谷岡氏の文章で強く印象に残る言葉があった。

「浜崎よ、わからないものと架空の握手を続けていても、きっと飽きるだろう」

だから「自分の徹底的なわがままに帰ればいいじゃないか」と続けているのだけど、この「わからないものと架空の握手」というので何かを思い出さないだろうか。「インターネット」だ。

浜崎あゆみを聴いて、次に他のアーティストを聴いたとき、「肉体的だなぁ」と感じることがある。それはそのアーティストが肉体的というよりも、浜崎が肉体的でないというか、肉体性に乏しい。「肉声が聞こえてこない」と谷岡氏も言っている。
安室奈美恵は「肉体」を追及するアーティスト、浜崎あゆみは「精神」を追及するアーティストとすると、確かにそうで、浜崎の歌詞は精神論みたいなところがある。メッセージがあるようでなく、匿名性の高い歌詞でもある。例えば、彼女の歌からどこか特定の場所や景色が浮かんでくることはあまりなく、「SURREAL」で自ら歌ってるように、それは<どこにもない場所>だったりする。文学的というより哲学的。
それを「ごまかし」や「空虚」と捉える人もいるかも知れないが、それならあの「エモーショナル」な歌いっぷりは何なのか。浜崎あゆみの歌詞については以下のブログに私は感銘を受けた。

初めて浜崎あゆみをちゃんと聴いてみた。そしたら現存在があった(自分探しソングの世界(Part.3): kenzee観光第二レジャービル
http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/part3-deac.html

次の Part.4 も必読で、浜崎あゆみは「ゼロ年代を駆け抜けた数少ないアーティスト」とあった。

そこで、さっきの「インターネット」の話に戻る。ゼロ年代とは、急激に「肉体性」が失われていった時代ではなかったか。
インターネットもそうだし、CD から配信、アナログからデジタルへ。

デジタルよりアナログ!コミュニケーションだってメールやネットより実際に会って話した方が良い、つまり、肉体性が大事だと、私だって思っている。けれど実際に、顔も名前も知ってる友達より、顔も名前も知らないネット上の人とのやり取りの方が日々多かったり、メール中心だったり、「肉体性」が失われていってるのも事実だ。

そういう急激な時代の流れの中で、どういう風に生きていくか。
大げさかも知れないけど、浜崎あゆみはそこを真正面から駆け抜けた数少ないアーティストだったのではないか。

前に私は、浜崎あゆみは最後のスーパースターだったのではないか?と書いた。
ジョン・レノン、マイケル・ジャクソン、矢沢永吉、尾崎豊、もちろん音楽として聴いているのだけど、その人の人間性や生き方、そういうものも含めて聴いているところがあった。そういう聴き方はだんだんなくなって、音楽はもっと機能的なものになっていく、機能的な聴かれ方になっていく(ように見える)。それにはインターネットやデジタル化も大きく関係していると思うけど、そういう中で、人間性とか生き方とか、そういうものをどう作品に込めていくか、デジタルなものとどう折り合いをつけていくか。

浜崎あゆみの歴史はその戦いだったのではないかと私は勝手に思っている。

<便利すぎる物達と 不便になってく心
 人間(ヒト)もやがていつの日か 記号化するのかな>
(浜崎あゆみ「everywhere nowhere」2002年)


浜崎あゆみは「ロック幻想」を打ち砕いたと同時に、「ロック幻想」を引き受けてしまった。そしてそれを、ゼロ年代の先へとつなげた(と私は思っている)。だから私は、スーパースターはこれからも生まれると思ってるんだよね実は。
そしてそこが、椎名林檎が乗り越えられなかった壁なのではないかと私は思っている。音楽が機能的になれば済むのだったら、椎名林檎から東京事変になったときの落差が説明つかない。

「空虚」との戦い。

インターネット、デジタル化、さまざまな「空虚」が襲って来た。
浜崎あゆみがそれらと戦えたのは、皮肉なことかも知れないが、浜崎あゆみが「空虚」だったからかも知れない。
そして、椎名林檎がそれらと戦えなかったとするなら、それは椎名林檎が「空虚」ではなかったからかも知れない。

迫り来る空虚を前にして、自らを記号化してしまうか(椎名林檎はこれだと私は思っている)、それとは無関係に肉体を歌うか。
もっと前の世代、あるいはネットが当たり前になってからの世代だったら、どちらでも良かったかも知れないが、ちょうどこの世代は、記号化もままならぬ、かといって肉体の大事さを歌ったところで何も解決にもならないくらい、空虚さが迫っていたのだと思う。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」――そこで浜崎あゆみは、自ら空虚の中に飛び込んで(それは自らがもともと抱えていた空虚さであったかも知れないけど)、空虚の中でなんとか肉体性を勝ち取ろうとしていたのではないか。

そしてゼロ年代、それこそが「リアル」だった。
それは確かに、谷岡氏の言うように「戦後日本の成れの果て」なのかも知れない。
しかし、それなら尚更、そこから立ち上がるしかないじゃないか。その「空虚」の中から。