私たちは(というかファンの多くは)、あゆの「リアル」な表現に惹かれ、それを支持した。
あゆ自身、「嘘のない表現」とか「歌の中に真実がある」と常々言っているのだから。
けれど、今回ばかりは、あゆの「リアル」をファンは受け入れられなかった。
ファンは、「リアル」であることよりも、アーティスト・浜崎あゆみの「役割」を求めた。役割を演じること、思い切った言い方をすれば、あゆに「嘘をつくこと」を求めたのだ。
そこに私は、浜崎あゆみの「リアル」の限界を見たし、「矛盾」を見た。
でもそれは、表現を突き詰めていけば、いつかぶち当たる問題なんじゃないだろうか。言い方を換えれば、あゆの「リアル」はそこまで本気だったということなんだろう。
ただ、ここでちょっと思うのは、これが海外のアーティストまたは男性アーティストだったらどうだったろうってことだ。そしたら、ここまで「葛藤」は感じなかったかも知れない。これは「日本人女性」特有のものなのかなぁ?
ただ、大事なのは、それでも浜崎あゆみの表現は「続く」ということ。
今回あゆの「リアル」は負けたけれど、じゃあ、あのまま突っ走って、彼を含めた一座全員でステージに立っていたらどうだったんだろう。それはそれで観てみたかった気もするけれど、それでもやっぱりあゆの「リアル」には限界があったと私は感じている。
あゆの「リアル」に限界があったというのは、あゆが「リアル」であることで評価されることの限界ってことなんだけど。
あゆには「音楽」がある。
つまり、あゆが「リアル」ではなく「役割」を求められたのなら、その「役割」に磨きをかければいいのだ。「音楽」に磨きをかければいいのだ。
そして、そんなことは、今までだってずっと最初からやってきた。
だから私は、「リアルな表現」で評価されてきた浜崎あゆみが、次の段階を迎えるとしてワクワクしているんだ。ピンチはチャンスだ。
そして、それでも「リアル」は決してなくならない。「生身の声」というものを知ってしまったら、今さら「ディズニーランド」には戻れないのだ。
「歌の中の真実」は、そう簡単にはなくならない。
そもそも「真実」なんてのは、そんな単純なもんじゃないんだろう。
かつて「人間として生きてやれ」と言った彼女は、まだ人間として生きている。
でも、そもそも「リアル」って何なんだろうね。というか、そしたら「リアルじゃないもの」って何なんだろうね。
前回挙げたブログ『kenzee観光第二レジャービル』では、「自然主義リアリズム」を「近代的自我」としていた。理想を追い求めたり、成長しようとしたり、自分を省みたり、そういうのだけが「心の声」であり「魂の叫び」なのかな。「生身の声」って何なんだろう。
ってか、前にも私、似たようなこと書いてたわ。
「FICTIONONFICTION」
それで最近、「アイドル vs ロック」みたいなのを見かけたんだけど、それってまだ有効だったの!?
でも私は、
「生身の声がエライという認識はおかしい!音楽として語るべきだ!」
っていうのも、
「生身の声を歌うのがロック。表面を洗練させるのがアイドル」
っていうのも、どちらも頷けない感じだ。今となっては。
だってさ、アイドル(と言われてる人達)を好きな人だって、その人の内面とか「生身の声」を含めて好きだったりするじゃん。
で、ロック(と言われてる人達)を好きな人だって、「生身の声」だからだけじゃなく、「曲」とか「パフォーマンス」とか「見た目」とかも好きだったりするじゃん。
「アイドル vs ロック」みたいなこと、私も前に「vs ロック 【前編】」「vs ロック 【後編】」で書いたけど、そこで、ロッキンオンに対して「vs 浜崎あゆみの空気をなかったことにするな!」ってなこと書いてるけど、今はもうそんなこと思わないかもなぁ(ま、少しはあゆも評価して下さいよというのはあるかも知れないけど)。なんかうまく言えないけど、今はもうそんなこと思わない。ツッコミはするかもだけど。「vs 浜崎あゆみ」の「浜崎あゆみ」は「=浜崎あゆみ」じゃないとわかったからかなぁ。
もうだんだん息切れしてきた感じだけど、最後にもうひとつ「偶像崇拝」についても書いておきたい。
これはどんな表現にもあるのかも知れないけど、特にあゆには、偶像崇拝的なイメージあるよね? 宗教的っていうかカリスマ的っていうか、もうファンは信者のようにあゆを崇拝して、「あゆーーー!」みたいな。でもこれ、エレカシとかにもあるよね。「宮本先生!!」みたいな。
で、そういうのって大体、ファン以外の人は引いてしまうんだよね。ファンが妄信すればするほど、周りは引いていくっていう。永ちゃん!永ちゃん!あんまり言われると、それに圧倒されはするんだけど、「すごいね」で止まるみたいな。入れなくなるっていうかさ。そういうのあるよね?
いや、ファンの中でさえ、あんまり皆が「あゆー!」って熱狂してると引いちゃう人いるよねきっと。
同じく上記ブログに、「告白文学」というのがあった。
浜崎あゆみも椎名林檎も Cocco も「告白文学」でエラくなったと。(音楽そのものはとりあえずおいておいてね)
だけど、「隠し事があって、告白するんじゃなくて、告白してから隠し事を探してるような転倒が『告白という制度』」、「浜崎にはこの疑いがある」と。
「ボクはあの人は基本、能天気というか楽天家タイプのヤンキーだと思う。」
私はこれ、「わかる!」と。
ブログでは「浜崎ファンホントに怒ってくるぞ!」って書かれてるんだけど、私はこれわかる気がするんだよねぇ。もちろん、だからといってその「告白」がウソだとかいうわけじゃなくて、あゆは本当にシリアスにやってると思うんだけど、どこか楽観的なところがあると思うんだよね。そんなところに救われてるところ、あると思うんだよね。
じゃなきゃ、「浜崎あゆみ」なんて続けてられませんぜ。って、私なんかは思っちゃう。
それが、私がもうずっと前から感じている彼女の「とてつもないバランス感覚」なんだけどね。
そして、あゆはそれすらもサラッと新曲でばらしちゃうんだよね。
“何でもあって何にもないのが
この砂の城の掟なの
今すぐ wake up wake up”
(浜崎あゆみ「Wake me up」)
これは、色即是空・空即是色か!?
だから、あゆの「リアル」は負けたのなんだのとさんざん書いてきたけど、あゆは「リアル」に負けてないのよ。少なくとも、負ける気はないのよ。
「告白という制度」をフル活用したのが浜崎あゆみとすると、前回の記事で「本人が言ってんだから」ってのも説明できるかなって。そうするとすぐに「話題作り」だとかになっちゃうんだけど、なんのためにその制度を活用してるんだって話だと思うし。
ちなみにそのブログでは、「告白という制度」をフル活用したのが浜崎あゆみで、「本物の告白」を背負って登場したのが椎名林檎とあった。だから、椎名林檎は「リアル」に負けてしまったのかなぁ、てなことを思ってしまった。
えーと、だから、あゆファンの中にも、「あゆに救われた!あゆがいなかったら今の私はいない」って人もいれば、「歌詞とか生身の表現とか生き様とか正直よくわからないけど、あゆ可愛いし、楽しいし、めっちゃ好きー!」って人もいるって話なのよ。
だから、あゆは「偶像崇拝」も突破できる!
しかし、先月プリンセス・プリンセスのライブに行ってきたんだけど、プリプリとか trf とか、あと、西野カナとか JUJU とかでも良いんだけど、あんまりそういう「偶像崇拝」を感じないよなぁ。いやまぁ、西野カナと JUJU はライブ観たことないからわからないけど、プリプリや trf はあんまり感じなかったなぁ。それは私がそこまで熱心なファンじゃないからかも知れないけど、心地良くて良いなぁって思ったの。
でも、あゆにはそういうカリスマ的魅力があるんだから仕方ないよね。それに、プリプリや trf だって、ずっと追いかけていけば自分の中でカリスマになるかもだし。
いくら言ったって、「偶像崇拝」はあるだろうし。
だからこそファンは、「嗤う」ってことも大事なんだよね多分。
あゆはそれを自分でできちゃうってことなんだけどさ、でもファンも嗤おうぜみたいな。
だからさ、色々あるけど、あゆのリアルな表現が胸を打つ!も大事だけど、あゆのプライベートとか人格とか一切関係なく、このメロディ良いよねー!とか、このパフォーマンス最高!とか、そういうのも大事だよねって話。あゆって人間的にも素晴らしい!大好き!も良いけど、あゆがどんな人間であろうと、この曲最高!とかさ。
まぁ、なかなか割り切れるもんじゃないし、割り切れないから面白いんであって、だからこそ「アイドル vs ロック」なんてのがずっとあるんだろうし。多分。
ああもう、どうやってまとめれば良いかわからなくなってきたー! 実際はこんな長々考えることじゃなくて、もっと単純な話かも知れないよ? でも、書いちゃったよ!
んじゃあ最後は、前回、岡崎京子が「すべての仕事は売春である」という言葉を引用したって書いたけど、その続きを書いて終わりにしたいと思います。
「そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。
“愛” は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。
それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして “資本主義” も。」
(岡崎京子『pink』あとがき より)
「失くしたくないものは?」と聞かれたときあゆは、「愛かな。それは全てにおいて」と答えていたなぁ。