ロックンロールの限り無き、うねりの中へ。 | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

いやぁ、なんだかんだと書いたけど、木村カエラの「Butterfly」すごく良いですね。本人は、文句なしに可愛いし。歌上手いし。

このことでも思ったけど、音楽やアーティスト自身よりもその周りがなんとな~くイヤだってのがあるよなぁ。

例えば、ユニコーンの復活。
私自身、ユニコーンは『ケダモノの嵐』(90年)とか『ヒゲとボイン』(91年)ぐらいから聴きだして、早くからのファンではないにしても、一応、93年の解散前から好きだったバンドで、今回の復活を喜んだ人間のうちの一人だ。
しかし、なんとな~く、一連のユニコーン復活ムードに馴染めなかったというか、しっくり来なかった。浅いファンではあったけど、それでも、ユニコーンってこんなノリだったっけ?と、浅いファンなりに思った。時差ボケと言ってしまえばそれまでだけど、言っちゃうと、ユニコーンってこんなに人気あったっけ?みたいな。

個人的には本当に嬉しかったし、私の周りにもファンは多いし、ユニコーンや奥田民生に影響を受けたミュージシャンなんてたくさんいるし、実際、本当にそれだけ人気があるんだと思う。しかし、なんかその、周りが作り出す “祝・ユニコーン復活!!” のムードが違うような気がした。周りって一体誰なのかわからないけど、どうも「本当にユニコーン聴いてたの?」とか「本当にユニコーン好きだったの?」って人も混じってそうっていうかさ。本当に好きな人もたくさんいるのに、どこかに嘘くささが混じってくるというかさ。いや別に、個人個人は、本当に好きだろうと興味本位だろうとなんだって良いんだよ。だけど、その「待ってました!」とか「みんな聴いてたユニコーン!」っていうような空気に嘘くささが混じってくると、なんかイヤじゃない。

復活の際、ユニコーンの楽しくてふざけた感じが前面に押し出されているように感じたけど、ユニコーンはもっとスリリングなところもあるバンドだったと思うんだよね。しかし、それが妙な復活ムードに覆い隠されていくというか。

だけど、ツアー『蘇える勤労』の映像を見ていると、そんな復活ムードとは裏腹に、当のメンバー達はスリリングにライヴをしているように見える。実際にライヴを観たはずなのに、映像で気付いた自分が情けない。
だから、本人達はせめぎ合い、スリリングに活動しようにも、周りが騒ぎすぎて、「楽しい(だけの)ユニコーン!」みたいな感じに歪められていき、本質から遠ざかっていくっていうのは、あるかも知れないなぁって思ったんだ。

前に書いたスーパーフライについても、60~70年代のロックやヒッピーを意識したファッションや売り方にあざとさを感じるみたいなことを書いてる人もいて、せっかく音楽が良くても、そういうことで目減りしてしまうことってあるよなぁと思って。もちろん逆に、その方向性に惹かれて好きになる人だっているんだけど。

そう考えると、いや、前から自覚してたけど、木村カエラやパフュームは、そのアーティスト自身よりも周りがなんとな~くイヤで敬遠しているところがあるなぁ。

例えば、パフュームは、「アイドルとロックの垣根をなんちゃら」とか「サブカルをポップに」とか、そしてそういうことをパフュームが「初めて成し得た!」とか、そういうのがなんかなぁ、何じゃらほい、みたいな。パフューム(の音楽)が好きなんじゃなくて、そういう理論や分析やセンス(あるいは、それをアピールするの)が好きなの?みたいな。んでもって、何も突然パフュームが現れたんじゃなくて、彼女らよりもずっと前からせっせと種を蒔いてきた人達がたくさんいると思うんだよ。「アイドルとロックの垣根をなんちゃら」とか「サブカルをポップに」とか言われなくたってやってきた人達がいると思うんだよ(もちろん今だって)。そういう人達があってこそのパフュームだと思うのね。これは誰にだって何にだって言えることだと思うけど、そういうことを踏まえた上で「初めて成し得た!」とか言って欲しいんだよなぁ。いや、踏まえた上で言ってるのかも知れないけど、どうにもこうにも、先人達への敬意が足りん!って思っちゃうことがある(私は何様?)。

ま、これは単なる私の嫉妬や僻みかも知れないんだけど、前にも書いた通り、私には「評価されたら終わり」っていうひねくれ根性があるみたいで、なんかこう、評価を前面に押し出されると引いちゃうんですよ。いや、昔は私も、評価フェチだったかも知れません。けれど、裏切られたのか裏切ったのか、いつしか違う感じになってきて。だって、評価は何もしてくれなかったもん。

結局、私は、(一方でそれに憧れていながらも)、“インテリ” が嫌いなのかも(笑)。

だから私は、安室奈美恵よりも浜崎あゆみ、ストーンズよりもビートルズなの!

いや、アムロちゃんもストーンズも好きだけどね。

だから、嫌いっつうよりも、インテリよりもポップ!な精神でいたい、のかな?

お芸術の金屏風よりも大衆芸術の浮世絵!(by ミヤジ)

「インテリはポップを間違った方向に持ち上げて、そんで平気で殺す」と書いていた人がいたけど、そうなんだ、インテリに摘み取られていくポップをいくつも見てきたよ。

あゆが評価されていないと感じるなら、それはあゆがポップであり続けているという証。

だからあゆよ、インテリに食われることなく、ポップであり続けろ!

実際の話、あゆだけだと思っちゃうもんね。
今そんなことできてんの。
インテリは強力だから。
あゆは私がやっと見つけたポップなんだから、インテリなんかに掴まえさせねー!

「ポップって戦いじゃない? ジャズよりも、ロックよりも、戦いじゃない?」とユーミン大先生もおっしゃっていたのだ。マッキーも、それに大きく頷いていた。

おっとーーー、また話がおかしな方向にイっちゃってるよ。

えっと、だから、

アーティスト自身というよりも、そのアーティストや音楽を取り巻く状況や雰囲気がなんとな~くイヤで敬遠してしまうことがあるけど、木村カエラのように聴いてみたら良かったってなことがあったり、ユニコーンのようにちゃんと観てみたらユニコーンはユニコーンだったってなことがあったりするんだよね。

もちろん逆に、周りに惑わされて好きになってしまう場合だってある。

だから、周りに惑わされずに、自分の目と耳と心で確かめたいなぁと。

これは聴き手側に限った話ではないと思う。アーティストがその周りに飲み込まれてしまうことだってあるんだから。

ザ・ブームに「手紙」という曲がある。エレカシでいうところの「ガストロンジャー」みたいな曲かも知れない。宮沢和史は、その曲でこう歌っている(朗読している)。

“それにしても、お気楽な音楽が蔓延してて、まるで公害のようだね。
 この巨大な渦の中心にいるのは、いったい誰なんだろう。
 きっと、誰もいやしないよ。”

周りっていったって一体誰のことを指すのかわからないように、きっとその巨大な渦の中心には誰もいない。
誰もいないけれども、そこに立ってみたときも、きっと自分はいるんだろう。
周りから完全に逃れることはできない。何故なら、周りも含めて自分だから。
でも、渦の中心に立つことができたとき、本当の音楽が聴こえてくるのかも知れない。

“疲れた時には孤独になれ” と宮本さんが歌う意味が、なんとな~くわかる気がしたよ。

とかなんとか言っちゃって、最近ベストも発売されて、木村カエラすごいですね。私、思いっきし周りに踊らされてるじゃないですか! まぁいいや、木村カエラは私の中で “インテリからポップに昇格した” ってことかも知れないです。その巨大な渦の中に “ポップ” があるかも知れないんです。