ただの歌が持つパワー | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

いやぁ、『ViVi』を読んだら、あゆ、NEXT LEVEL ツアーについて、

「機械にはできないこと、人間にしかできないものを聴かせたい、見せたいって気持ちが強かったかな」

だって。

私、思いっきり、「機械っぽい」って書いてるんだけど(笑)。

全然ダメじゃん。あゆの意図を汲めてないじゃん。

いや、でもね、このインタビューであゆが言ってることも分かるのよ。
だから、もうちょっと書いておこうかなと。

私が「機械っぽい」と感じたのは、まず、「rollin'」の “ロボット” みたいなダンスや “お経” のような歌から爆発していく感じが強烈で、その印象がライヴ全体の印象になってしまうくらいのものだったのと、あと、アルバム『NEXT LEVEL』が “打ち込み” の印象が強かったんでそれもあるかも知れない。

それと、今まではライヴ全体にストーリーや筋書きがあったと思うんだけど、今回はそういうのがあまりなくて、ただひたすらに歌うっていう感じがして。それがある種、ミュージック・マシーンのように映ったとでも言えば良いのかな。

でもそれは、感情がなくなってしまったとか、そういうことではなくて。

むしろ、今まで以上に感情の爆発や解放を感じたから。

私はその “グルーヴ” にかつてないものを感じたのだから。

で、そのグルーヴはどこから来るのだろうかと考えた結果、「自己批評と自己愛が猛烈に渦巻いている」ところから来るのではないかっていう、一応の結論に辿り着いたわけだけど…。

でも、何だよそれ!?って感じだよね(笑)。
自分で書いておきながら。

そこでも書いたけど、あゆはかつて「人間として生きてやれ!」という言葉を掲げて、それが大きなテーマだったかも知れないと。だから、その「人間らしくありたい」という思いから、ライヴにストーリー性を持たせて喜怒哀楽を表現したり、言ってみれば、人間らしさを演出していたところがあったのかも知れない。ライヴというより、エンタテインメントなステージを目指してきたのも、ただ歌うのではなく、人間の持つ様々な感情や表情を表現したいという思いからくる、噴水だったり球体だったりイリュージョンだったんじゃないかと。

それが今回、“ただ歌っている” って感じがしたから、そういう意味で「機械っぽい」と言ったのであって、そこで表現されている内容が「機械っぽい」という意味ではなかったのです。

つまりこれは、今のあゆは、人間らしさを演出する必要がなくなったということなんじゃないかね。

ただ歌うだけで、そこには喜怒哀楽があり、人間らしさがある。
いや、というか、人間らしいっていう前に、人間だから。
そもそも人間なのよ。

それが、今までどこか人間らしさを演出していた自分を、せせら笑うかのように、そんなの何も演出なんかしなくったって、私がただ歌えばそれが人間よ、みたいな。だって、私人間だもん、みたいな。そういうものを感じたわけ。それを「自己批評」って書いたわけなんだよね。

だけど、そこには「自己愛」もあるわけでさ。

だって、どっちにしろ、「人間にしかできないものを聴かせたい、見せたいって気持ち」は全く一緒なんだもん。

「今までは、ライヴというより、エンタテインメントなステージを作りたいと思ってやってきたのね。でも、今年はショー的な部分も残しつつ、バンドの演奏力だったり、ダンサーズの躍動感だったり、チームワークだったり、私の歌そのものだったり……、そういう、機械にはできないこと、人間にしかできないものを聴かせたい、見せたいって気持ちが強かったかな」

つまり、機械のように、ただ歌い、ただ踊り、ただ演奏することによって、歌そのもの、踊りそのもの、演奏そのものを聴かせ(見せ)、結果それが、ピュアな、機械には決して表現することのできない、人間にしかできないものになっているという、そういうことなんじゃないかなぁ。

人間らしさを演出すれば、それで伝わるものもあるけれど、一歩間違えればかえって機械っぽくなってしまう場合もある。今のあゆは、演出なしでも機械っぽくならない、いやむしろ、ただ歌う方が自分(人間)を表現できると、そう思ったんじゃないかなぁ。
そういう時期やタイミングを見逃さないのも、あゆのすごいところだよねぇ。

今回のライヴですごく思ったのは、激しい曲とか、シンプルなロックとか、美しいあゆとか、爽やかなあゆとか、人を小バカにしたようなサングラスで変テコなあゆとか、クールかつ風変わりなダンスとか、キュートなあゆとか、Tシャツ一枚で全身で歌うとか、色~んな場面があったわけだけど、これ、ぜ~んぶ同じ人なんだよなぁと思ったら、しかも一回のライヴでとか思ったら、とんでもない気がしてきて。なんだか10個分くらいのライヴを観たような気分かもって。

だから、一つ一つの場面をもっと長く観てみたいなって気持ちもあるんだけれども、一人の人の一回のライヴでこれだけってすごい気がして。

今までだって、様々なシーンを見せてきたあゆだけれど、前はそこにある繋がりやメッセージを重視してた気がするんだけど、今回はそういうのがなくて、ただそのままありのままで共存しているっていうか。
これだけ色々な表情を見せながら、やたら色んなもんに手を出して何がやりたいんだ?って感じでもなく、どれも真実味を持って、ありのまま共存してるっていうか。

なるほど。確かにこれは人間にしかできないことかもなって思ったり。

それは、あゆの歌そのものが持つグルーヴなんじゃないかな。