『ダ・ヴィンチ』という名の、本にまつわる月刊雑誌がある。

 

 

ハロヲタないし娘。ヲタならば知ってる人もいるだろう。

以前、「ハロプロが女の人生を救うのだ」というキャッチコピーで、モーニング娘。が表紙になったことがある例の雑誌だ。

 

 

 

 

 

 

なつかしー。

 

 

ちょうど3年前ですって。

この頃はまだまーちゃんもいたんだなぁ。

 

 

 

そんな雑誌『ダ・ヴィンチ』の最新号を本屋で見かけたんですが、それがこんな表紙で。

 

 

 

 

 

 

星野源氏は置いといて、文字のほう。

 

 

 

推しがしんどい

 

 

 

 

いわゆる「推し」に関する特集のようです。

広い意味での「推し」。

 

 

正直この雑誌の内容は今回の主題ではなく、そういえば最近は至るところでこの「推し」とか、あるいは「沼」みたいな言葉を聞くようになったなぁと思ったことをいま思い出して、あまりに書くことがないために無理矢理ブログのネタにしようと試みております。

 

 

 

 

 

推しとか沼とか。

 

 

しんどいんですってよ。

好きすぎてつらいとか、たぶんそういう意味なんでしょう。

 

 

数年前から、こういうヲタクの趣味みたいなものが急に市民権を得た感があるのはなんなんでしょう。

きっかけはどこから?アイドル?アニメ?他の何か?

 

 

元々、ヲタクなんてものは世間からはみ出した異分子だったはずでは。

 

 

教室の隅のほうでこそこそと、仲間同士で好きなアイドルやアニメ談議に耽るヲタク連中を「キモっ」と罵る陽キャの人々……それがこの世のことわりだったはず。

 

 

 

それがいつしか市民権を得るようになり、ヲタクというのがひとつのアイデンティティのような、ある種の羨望を向けられるようなものになっている昨今。

 

 

私もヲタクになりたい。

なにかのめり込める趣味を見つけて、沼にハマりたい。

 

 

そんな風潮があるようなないような、いやたぶんあるんだろうなという気がするこの頃に戸惑いを隠しながら生きています。

 

 

 

 

聞いた話では、いまの若者の7~8割は「自分はヲタクである」と思っているらしく。

 

 

なるほどそれは本当なのかもしれないし、あるいは単に「ちょっと好きな芸能人がいる」「一応趣味がある」程度のことをそう言っているのかもしれないし。

 

 

いずれにせよ、ヲタクとか推しとかいったものが、まるでちょっとしたファッションであるかのように扱われている気がしないでもないこの時代。なんとまぁ、変われば変わるもんですねと驚嘆の意を述べておきましょう。

 

 

 

 

 

別にいいんだよ。全然。

 

 

突き詰めていくと、そういう風潮によって良いことも悪いこともあるよなとは思うけど、話が長くなるのでそこは割愛する。

 

 

ただまぁ、ヲタクというのはたぶん、そういうふうにしか生きられない業のようなものだと思う気もするのです。

 

 

趣味は趣味だけど、それがなかったら生きていけない。

意識してどうこうしようと思う以前に、勝手に身体が動いている。(心はもっと先に動いている)

 

 

こういう言い方は意地が悪いけど、陽キャのリア充がファッション感覚で取り入れるようなオサレなものでは決してなく、まさに業、清濁併せ吞む修羅の道であると警告したい気持ちが一瞬沸き起こるものの、もちろんそんな野暮なことは言いません。

 

 

 

本当のヲタクは、たぶん「推し」なんて言葉は必要ない。

 

 

推しっていうか、好きだから。

それがなければ生きていけない、生きている意味がない。それはあらゆる想いが込められた「好き」であり、推すとか推さないとかそういうレベルではもはやない。

 

 

沼なんてものもない。

沼ではなく、深い深い深宇宙に生まれついた我ら。

世界はそこしかないのです。沼なんて所詮、そこから上がろうと思えば上がることができる泥の池に過ぎない。

しかし世界そのものが宇宙であったら、そこから抜け出すなんてことはできないではありませんか。

 

 

 

しんどいなんて、いまさらなにを。

 

 

 

業だと言ったろう?

これは明らかに“生き方”であるにもかかわらず、あくまで“趣味”でなくてはならない。

それ以上の踏み込みはいろんな意味で禁忌である。

そこを侵すことは、ヲタクという業からの逸脱でしかなく、その先にあるのは破滅のみ。

 

 

 

 

 

それがヲタクだよ。

 

 

推しとか沼とかしんどいなんて、本当のヲタクにとっては改めて言葉にしてどうこう言うほどのものでもないんだよ。

 

 

 

 

そうでなければいけないというわけでは、もちろんない。

 

 

軽い感じで、ライトなヲタクを楽しむことは何も悪くない。

むしろそっちのほうがずっと良いと思う。マジでそう思う。

 

 

しかしふと、テレビや雑誌やネットやその他諸々で、ヲタクという生き方がファッション感覚で扱われているのを見ると、そういった人々と自分(のような人々)との違いというのを少し考えてしまうな、と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

このブログでもたまに「推し」という言葉は使うけど、これは読んでる人にわかりやすく理解してもらうために使ってるという感覚が強くて、普段自分の好きなアイドルやメンバーを「推し」という言葉で認識することはほぼないと言っていい。

 

 

約22年間ずっとモーニング娘。のファンを続けていることも「沼」だと思ったことはないし、その感情が時にしんどくなるのも、もう日常のことすぎてしんどいとすら感じていない。

 

 

これ以外の生き方なんてあるの?としか思えない。

自分がヲタクであるかどうかすらどうでもよく、単に好きなものを求め続けているだけだとしか言えない。

 

 

もちろんそれを自慢げに思ったことなど一度もない。

これはすべて自分自身にとって必要なことなのであり、他人にどう見られるかとか、どう評価されるかといったこととは無関係である。

 

 

 

 

気付いたらこうなっていた。

 

 

というのが、おそらく本来の、古来から存在する“ヲタク”なのだろう。

 

 

 

 

 

と思ったりもしますが、まぁそんなのどうでもいいと言ってしまえばそれまで。

 

 

あまりにも書くことがないので、ちょっと思ったことを無駄に膨らませてここまで書いてみました。

冗談半分で読んでくださいね。

 

 

でもまぁ、ヲタクという言葉やその存在が、世間から昔とは少し違った感覚で捉えられるようになったなぁとは思います。

 

 

そのおかげで良いこともあるだろうし、そのせいで悪いこともあるというのはまぁ仕方ないのかな。

 

 

 

 

今後、この「推しブーム」みたいな風潮がどうなっていくのか、動向を見守りたい気持ちは別にないですけど、モーニング娘。はもっと世間の人々に見つかってほしいなぁとヲタクらしいことを言って締めることにしましょう。