モーニング娘。の歌割りに関する、一部ファンからの不満。

 

 

最近よく目にするホットなワードである。

 

 

と言いたいところだが、そんなものはもうずっと昔からあった。

いつの時代もヲタクは、歌割りに関してやいのやいの言わずにはいられないらしい。

 

 

その主張のほとんどが、「推しの歌割りが少ない」または「全体的に歌割りが偏っている(多いメンバーと少ないメンバーの差が激しい)」というものだ。

おそらく、前者の主張をする人々が、別の言い方でそれを訴えた結果が後者の主張なのだと思う。結局彼らの言いたいことは、「推しに歌割りをよこせ」に尽きる。

 

 

 

 

さて、これが自分にはずっと不思議だった。

 

 

モーニング娘。は「モーニング娘。」というひとつのグループなので、そのグループとしてリリースする楽曲は当然ながら「モーニング娘。の作品」ということになる。(メンバーの誰かひとりの作品ではない)

 

 

わたくしは最近のアップフロントのやることは基本的に信用していないが、モーニング娘。周辺のスタッフさんに関しては概ね信用している。

作詞作曲を担当しているつんくさんのことは言わずもがな、娘。曲の多くを担当する編曲者の大久保薫さんや平田祥一郎さん、そして主につんく曲を担当しているディレクターさんは、つんく♂さんとの信頼も篤く、長年モーニング娘。の楽曲制作に携わってきた。(非つんく曲の場合はシャ乱Qのたいせいさんが担当することが多く、それもまた信頼できる)

コンサートスタッフのみなさんも、方々からの話を聞くにつけ、ちゃんとモーニング娘。のことを考えてライブという作品を作ってくれているのだなと思える。(まぁそれが当たり前なのかもしれないが)

 

 

 

そんなプロのスタッフさん方が“モーニング娘。の作品”として世に送り出したものだから、歌割りが偏っていようが、推しの歌割りが少なかろうが、「これがこの曲のベストな形なんだろう」と納得できるのだ。

 

 

逆に言えば、彼ら(スタッフさん)を信頼していないヲタクは、不満を持つのだろう。その心理はわからなくもない。わたくしも事務所運営のことを信頼していないので、ことあるごとに不満を感じている。

 

 

 

しかしわたくしは娘。の作品周り(楽曲やコンサート等)の制作陣のことは信頼しており、歌割りなんてものは作品全体から見れば些末なものだと思っている。

たとえばファンではない、そのグループをよく知らない人たちは、歌割りなんて気にもしないだろう。それを気にするのは、メンバー本人を除けばファンだけだ。楽曲は、ファンだけに向けて作られるわけではない。(コンサートも同様)

 

 

もちろんメンバーそれぞれアーティストとしての個性や能力は違うので、誰がどのパートを歌うのかということは作品にも重要な関係を持つ部分だが、素人にそれは決められない。決める権利もないし、能力もない。

だからプロの制作陣を信頼するしかない。少なくとも素人の自分が彼らよりそういった点で優れているとは思えないので、「これがプロの解答なのだ」と思って楽曲を聴くし、いまのところそれに対して大きな不満を抱いたことはない。(だから信頼しているわけです)

 

 

 

 

 

言ってる意味がわかるだろうか。

要するに、楽曲全体を見て評価するか、歌割りという細部だけを見て評価するかの違いである。

 

 

 

曲を聴くとき、歌割りの分散具合や推しのソロパートの数ばかり気にしているのだとすれば、それは音楽を聴くというより、別のエンターテインメントを楽しんでいらっしゃるように思える。(それがダメだという意味ではないが)

わたくしはまず、音楽を音楽として楽しみたい。それはコンサートを見ているときも同じ。歌割りに関しての優先順位は、あまり高くはない。

 

 

 

 

 

もちろん、推しの歌割りがもっと増えてほしいと願うことはファンとして自然な心理だ。

 

 

わたくしもファンになったばかりの頃は、どちらかといえば楽曲全体のクオリティよりも、推しに良いソロパートがあるかどうかに関心が強かった。

曲そのものはそこまで好みではなくても、推しの素晴らしいソロパートがあるだけでその曲が好きになることもあった。

 

 

それが悪いわけでは全然ない。

楽しみ方は人それぞれだし、誰かに迷惑をかけなければ自由だ。

 

 

ただそれは、プロの目線で楽曲のクオリティを考慮して出された客観的な意見ではない、とは言っておきたい。

 

 

ヲタクのなかには、まるでその道のプロであるかのように「グループのために(または楽曲のために)こうしたほうがいい」などとおっしゃるヲタクもいるようだが、正直言ってだいぶ個人的な願望や歪んだ主観で占められており(ただ推しの歌割りを増やしたいだけとか、気に入らないメンバーの歌割りを減らしたいだけとか)、作品のことを冷静に客観的に見ての意見とは思えないものがほとんどだ。

 

 

モーニング娘。をまったく知らない人に、「これ聴いてみてくれよ!歌割りがだいぶ偏ってると思わないか!?」と訊ねて、「そうかもしれないけど、良い曲だよ。歌割りが偏ってちゃいけないの?」と返される。その視点が、素直な評価であり、本当の客観性である。

歌割りの偏りやソロパートの数にこだわっている時点で、そこに客観性はない。

 

 

 

ファンとして、個人的な願望として、推しの歌割りが増えてほしいと望むことは自由だが、モーニング娘。がグループである以上、その願いが叶うかどうかは誰にも確約できない。

自分はそういう類のことを願っているのだと自覚すれば、辛抱堪らずコメント欄に文句を書き殴るような真似はしなくなるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、「全体的に歌割りが偏っている」という主張についても話そう。

「推しの歌割り云々とかじゃなく、あくまでグループ全体を見ての意見だ」とおっしゃる人々の言い分をとりあえず聞いておくフリをして。

 

 

 

 

何度か書いてることだが、モーニング娘。はプロの歌手なので、幼稚園のお遊戯会のように「メンバーみんな平等にソロパートを振り分けましょうね~」といったことはしていない。

(実際の幼稚園のお遊戯会ではソロパートなどはなく基本ユニゾンだとは思いますけど、比喩ですので)

 

 

メンバーもよくテレビ等で言っているように、ソロパートを貰えるかどうかはその時々の歌の出来にかかっており、レコーディングは毎回オーディションを受けているようなものなのだ。

 

 

この歌割りオーディションを勝ち抜いた者に、晴れてその部分のパートが与えられる。

まさに厳しいプロの世界と言えよう。単純に数の多い少ないだけで決められているのではない。きちんとプロが見定めて決めているものだということだ。

 

 

 

自然、歌唱力や表現力の高いメンバーに歌割りは多くなるだろう。

 

 

なんの不思議もない。

プロの歌手なら当然のことだ。

 

 

しかしこれまた単純に「歌が上手ければいい」というわけでもないのが、モーニング娘。のおもしろいところだ。

つんく♂さんがプロデューサーだった頃は、「たとえ歌が上手い奴でもどんな人気メンバーでも、なんかこいつ最近サボってるんちゃうか~?と感じる子は後ろに下げる。逆に歌が得意じゃなくても、いまこいつめっちゃ光ってるやんと思うやつを前に出す」みたいなことを言っていた。

 

 

いま現在、どこまでそういった考えが残っているのかは不明だが、モーニング周辺のスタッフさんは(ディレクターさん含め)昔からモーニング娘。を支えてきた人たちが多いように見受けられるので、基本的なところは変わってないのではないかと推察している。

 

 

 

要するに、歌割りが多いメンバーには、多いなりの理由がちゃんとあるということだ。

 

 

実際、歌割りの多いメンバーを見て「なんでこの子がこんなたくさん歌ってるんだろ」と思うことはまずない。

「そりゃあ歌割りも多くなりますよね」と納得するパフォーマンスをしてくれるメンバーの姿を再確認するばかりである。

 

 

それを無視して「なんであいつにばっかり歌割りが与えられるんだ」と憤慨するヲタクもいるようだけど、それは感情的になりすぎて周りが見えてないと言わざるを得ない。

まさしく、恋は盲目。

できればもう少し冷静になって、この結果は推しにぞっこんなヲタク目線の評価ではなく、グループ全体をプロの視点で評価した結果なのだ、と気付こう。

 

 

 

 

 

それでも昔は、アルバムも1年に1枚出ていたし、シングルにはカップリング曲があった。

 

 

シングルではどうしても、(総合的に見て)歌の上手いメンバーを中心に持ってくることになるが、アルバム曲やカップリング曲ならばもっと冒険ができる。

プラチナ期の『秋麗』などは、1番はがきさんのソロ、2番はさゆのソロという、攻めた構成だった。

 

 

そういう機会が激減してしまったのが痛い。

理想をいえば、シングルは両A面にしてカップリングを1曲つけるとか(昔やってたように数種類の初回盤で曲を変えるのもあり)、アルバムをもっと早いペースでリリースするとか、事務所には頑張っていただきたい。そうすれば普段歌割りが少ないメンバーにもチャンスが増える。

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁいろいろ言ってきたが、モーニング娘。は人数が多いので、全員に満遍なくソロパートを振り分けるのがなかなか難しいという事情もあるだろう。

 

 

作品として必要なわけでもないのに歌割りがひっきりなしに変わっていったら、聴いてるほうも「なんじゃこりゃ」となってしまう。(楽曲のクオリティ低下に繋がる)

 

 

 

おそらく、「推しの歌割りが増えるように、ベテランメンバーは早く卒業しろ」とのたまっている連中は、そういう考えから言っているのではないだろうか。

人数が減れば、推しのチャンスも増えるはずだと思っている。それが歌割りの多いメンバーであれば尚よろしい。

 

 

それはつまり、誰かがいなくならなければ推しにチャンスはないと思っているということだ。「私の推しは、誰かが卒業しないと歌割りももらないメンバーなんです」と言っているに等しい。なんと失礼なことだろうか。推しをまったく信頼していないからそんな風に思ってしまうのだということに、本人だけが気付いていない。やはり周りが見えていない。いや、「自分が見えていない」と言うべきか。

 

 

 

 

 

 

 

 

歌割りの偏りという点で顕著な曲は、モーニング娘。のシングルでいえば『リゾナント ブルー』ではないだろうか。

ハローの歴史のなかで一番センセーショナルだったのは、たぶん℃-uteの『SHOCK!』だろう。

 

 

『リゾナント ブルー』は、発表当時にいろいろ騒がれた。

いまでこそプラチナ期の名曲として支持されているが、当時はとにかく「歌割りが偏ってる!」とか「前列の3人しか歌ってないじゃないか!」という怒声が飛び交っていた。(もちろんネット上でだ)

 

 

個人的にはそうは思わず、「なるほど、確かにこれはこの構図がいいのかもしれない」と感じていた。

とてもクールでスタイリッシュな楽曲なので、全員で代わる代わる歌っていくよりは、メインを少数で固めたほうが作品のクオリティは上がる、と。

 

 

『SHOCK!』のときも似たようなもので、いやーだいぶ攻めてますねぇと驚きはしたものの、おもしろい試みだなと感心したのを覚えている。(メンバー本人たちや℃-uteのファンは心穏やかではいられなかったでしょうけどね。℃ヲタじゃないから言えたことではある)

 

 

 

 




このように、わたくしは歌割りよりも楽曲全体のクオリティを重視して評価するので、あまりその辺は気にならない。

 

 

モーニング娘。の場合はメンバーの卒業があり、ソロパートの継承というおもしろさもある。

歌割りを意識するのは、もしかしたらそういうときくらいかもしれない。

 

 

もちろん「この子のこのソロパート良いなぁ」と思うことはあるけれど、それだけで作品全体を評価はしない。

歌割りだけに固執することは、木を見て森を見ないことに等しいからだ。

たしかにどの木も一本一本素晴らしいが、楽曲というのはあくまで森から生まれるものだ。木ばかり見るのも悪くはないが、モーニング娘。はグループ歌手なのであり、森だということを忘れてはいけない。