不思議なもので、ハローのグループそれぞれの“条件の違い”というものをどうしても認めようとしないヲタというのが一定数いる。
このブログではここ最近、よく娘。と他グループとの違いについて触れてきた。
たとえば、頻繁に繰り返される卒業加入による技術的・精神的な変化。
そしてそれに伴う洗練さからの解離。
こうグループの変化が忙しいと、パフォーマンスの精度を高めるどころではなくなり、状況についていくことに必死にならざるを得ないという意味だ。
人数の多さによる弊害というのもある。
まず、歌割りが偏る。仮に平等にしたとしても、一人の歌う分は他グループに比べて短くなるだろう。
ダンスのフォーメーション移動も大変だ。
娘。の曲はほとんどが激しい振り付けとフォーメーション移動なので、あまり動かず落ち着いて歌えることはまずない。
年齢や芸歴がバラバラというのも、場合によっては負担となるだろう。
他にもいろいろとあるが、とにかくそういった「他のグループと違うこと」は少なくない。
もちろんそういった差異が良い方向へ働くこともあるし、娘。に限らずどこにだってそのグループなりの苦労というものはある。
でもヲタというのは、そういった条件の違いというものを、なぜか認めようとしない。
まるで見えていないかのように、存在しないかのように、無視する。
某所で自分と似たような主張をしているコメントを見つけたとき、それに対して「それは関係ないと思いますよ」という返信があったのを見かけた。
ひとつやふたつではなく、その「条件の違い(によるパフォーマンスレベルの差異)」を指摘したコメントには、大抵「関係ないでしょう」とか「それはいいわけですよ」とか「どのグループだって条件は同じですよ」といったコメントがついていた。
いやいやいや、関係なくはないぞ。
ハローの各グループ、どう考えてもスタートラインは同じじゃないし、走ってる道も結構違う。
少なくとも、グループごとの条件(環境)の違いというものは事実として存在する。
あくまでファンから見た観察ではあるけど、「条件はみな同じ」とはさすがに言えまい。
このように、どうしてもそれを認めない、認めたくないヲタが一定数いるらしい。
それは要するに、根性論なのだと思う。
根性論の精神論の、感情論。
プロたるもの、そんな条件の違いなんていいわけをするな!というわけだ。
ステージに上がればみな同じ条件で戦っているんだ!と。
でも残念ながら、実際は違う。
そこには明確な条件(環境)の違いというものが存在し、それは少なからずパフォーマンスにも影響してくる。そこを無視してはいかんでしょう。
実に不思議だ。
なんでも同じ条件で比べたがるヲタがいる。
どのグループもどのメンバーも、同じ時間に同じ位置から一斉にヨーイドンで出発したものだと思いたがるヲタがいる。
「コンサート」となれば、どのグループもどの楽曲もみんな同じ条件の元で評価したがるヲタがいる。
それぞれの差異を、なかったことにしてしまう。
多くの場合、それは批判的な意見を主張する際に用いられる根性論である。
批判的な意見を言うときに、そんな細かい条件の違いなんていちいち考慮していられない、しかもそれを考えてしまったら自分が感じたこの批判もできなくなってしまう、だから無視しようそうしよう。そんな自分本位な考え方によるものだと推察される。
たまに、推しを褒めたいが故に条件の違いを無視することもないではないが、そういうものは結局他の誰かを否定することによる推しの称賛だったりするので、本質的には変わりがない。
しかしそれでは客観的な意見とは言えないし、それどころかまともな主観ですらない。
正論を邪論で潰し、意図的に歪めてしまっているということなのだから。
でもしかしどうやら、そういうヲタが一定数いるらしい。
ああ不思議だ。
どうしてそれを無視してしまえるのか。
ファンならば、それぞれグループごとに、やってることは大きく違うとわかるはずなのに。
どうしても“同じ条件”で比べて評価したがる。
同じ条件なんて、せいぜい「ハロープロジェクトに所属している」くらいしかないのにね。
実際、そういった条件の違いというのがどれくらいパフォーマンスに影響してくるのかはわからない。
ヲタが思ってるより少ないのかもしれないし、いやいやめちゃくちゃ影響あるよ、なのかもしれない。
やってるメンバーにしかわからないことだけど、メンバーにしたって他グループと厳密に比べてみないとわからないので、精確に推し測るのはなかなか難しい。
おそらく、だからこそ一部のヲタはそれを無視してしまうのだろうけども。
というわけなので、さくらのしらべに行ってきます。
このブログではここ最近、よく娘。と他グループとの違いについて触れてきた。
たとえば、頻繁に繰り返される卒業加入による技術的・精神的な変化。
そしてそれに伴う洗練さからの解離。
こうグループの変化が忙しいと、パフォーマンスの精度を高めるどころではなくなり、状況についていくことに必死にならざるを得ないという意味だ。
人数の多さによる弊害というのもある。
まず、歌割りが偏る。仮に平等にしたとしても、一人の歌う分は他グループに比べて短くなるだろう。
ダンスのフォーメーション移動も大変だ。
娘。の曲はほとんどが激しい振り付けとフォーメーション移動なので、あまり動かず落ち着いて歌えることはまずない。
年齢や芸歴がバラバラというのも、場合によっては負担となるだろう。
他にもいろいろとあるが、とにかくそういった「他のグループと違うこと」は少なくない。
もちろんそういった差異が良い方向へ働くこともあるし、娘。に限らずどこにだってそのグループなりの苦労というものはある。
でもヲタというのは、そういった条件の違いというものを、なぜか認めようとしない。
まるで見えていないかのように、存在しないかのように、無視する。
某所で自分と似たような主張をしているコメントを見つけたとき、それに対して「それは関係ないと思いますよ」という返信があったのを見かけた。
ひとつやふたつではなく、その「条件の違い(によるパフォーマンスレベルの差異)」を指摘したコメントには、大抵「関係ないでしょう」とか「それはいいわけですよ」とか「どのグループだって条件は同じですよ」といったコメントがついていた。
いやいやいや、関係なくはないぞ。
ハローの各グループ、どう考えてもスタートラインは同じじゃないし、走ってる道も結構違う。
少なくとも、グループごとの条件(環境)の違いというものは事実として存在する。
あくまでファンから見た観察ではあるけど、「条件はみな同じ」とはさすがに言えまい。
このように、どうしてもそれを認めない、認めたくないヲタが一定数いるらしい。
それは要するに、根性論なのだと思う。
根性論の精神論の、感情論。
プロたるもの、そんな条件の違いなんていいわけをするな!というわけだ。
ステージに上がればみな同じ条件で戦っているんだ!と。
でも残念ながら、実際は違う。
そこには明確な条件(環境)の違いというものが存在し、それは少なからずパフォーマンスにも影響してくる。そこを無視してはいかんでしょう。
実に不思議だ。
なんでも同じ条件で比べたがるヲタがいる。
どのグループもどのメンバーも、同じ時間に同じ位置から一斉にヨーイドンで出発したものだと思いたがるヲタがいる。
「コンサート」となれば、どのグループもどの楽曲もみんな同じ条件の元で評価したがるヲタがいる。
それぞれの差異を、なかったことにしてしまう。
多くの場合、それは批判的な意見を主張する際に用いられる根性論である。
批判的な意見を言うときに、そんな細かい条件の違いなんていちいち考慮していられない、しかもそれを考えてしまったら自分が感じたこの批判もできなくなってしまう、だから無視しようそうしよう。そんな自分本位な考え方によるものだと推察される。
たまに、推しを褒めたいが故に条件の違いを無視することもないではないが、そういうものは結局他の誰かを否定することによる推しの称賛だったりするので、本質的には変わりがない。
しかしそれでは客観的な意見とは言えないし、それどころかまともな主観ですらない。
正論を邪論で潰し、意図的に歪めてしまっているということなのだから。
でもしかしどうやら、そういうヲタが一定数いるらしい。
ああ不思議だ。
どうしてそれを無視してしまえるのか。
ファンならば、それぞれグループごとに、やってることは大きく違うとわかるはずなのに。
どうしても“同じ条件”で比べて評価したがる。
同じ条件なんて、せいぜい「ハロープロジェクトに所属している」くらいしかないのにね。
実際、そういった条件の違いというのがどれくらいパフォーマンスに影響してくるのかはわからない。
ヲタが思ってるより少ないのかもしれないし、いやいやめちゃくちゃ影響あるよ、なのかもしれない。
やってるメンバーにしかわからないことだけど、メンバーにしたって他グループと厳密に比べてみないとわからないので、精確に推し測るのはなかなか難しい。
おそらく、だからこそ一部のヲタはそれを無視してしまうのだろうけども。
というわけなので、さくらのしらべに行ってきます。