しつこくてすみません。
昨夜まーちゃんについてのブログをアップしたあと、さらにもう少しだけ考えてみました。


Twitterに書いたんですが、その部分、ブログ用の文章に直すのがめんどいのでそのまま書きます↓




まーちゃんはおもしろかったり凄かったりするんだけど、その多くが「やろうと思ってやった」わけではないから、外部に発信するのが難しいんですよねぇ。言わば偶然みたいなもので、再現性が低い。狙ってやってないから良いんだけど、逆に言えば「狙ってやる」ことが難しい。


例えばバラエティに出て笑いを取って成功したとして、「またあれをお願いします」と言われてそうできるだろうか。さゆとかももちみたいに、考えて、狙ってやってるならともかく、そうじゃないとまた偶然頼りみたいになるしかない。成功するときと失敗するときの差が激しすぎる。


ファンにとっては抜群におもしろい存在であるにも関わらず、事務所が外部にほとんど売り込まないのはそういった理由もあるのではと推察するところです。まーちゃんを楽しむには、ある程度深い度量(好意的な姿勢)が必要不可欠なんですよね。


でも最近は、徐々に外向きにも発信できるようになってきてるのかもしれない。それはいわゆる“成長”なんだけど、本人は「自分がいなくなってる気がする」と感じているのかもしれない。




的なことをね。


多少、極端な言い方をしてる部分もありますのでご了承ください。



一番言いたかったのは、「まーちゃんのおもしろさや凄さというのは(精確な)再現性が低い」ということ。


加えて言うと、まーちゃんには論理性が欠けている。


論理性が欠けているから、再現性が低いのかもしれません。


わかりやすく言うと天才肌な人で、考えてやるよりも、フィーリングでやってる感じですね。



だから、音楽とか絵画とか、そういった抽象性の高い芸術には向いてると思います。


ただ芸術でも、例えば小説とかノンフィクション作品みたいな、感性と共に論理性も重要になってくるものは向いてないかもしれない。


最低限のセオリーは踏襲しつつも、論理より感性でどうにかできるものがいいでしょう。




昨日はるなんが『踊るさんま御殿』に出ていましたが、もしまーちゃんが出たらどうだろう?と考えてみました。


バラエティで成功するというのは、その後も「それ」を求められるものなので、再現性が大事になってきますよね。またそのおもしろさを発揮できるかどうかが。


視聴者の期待や、司会者のフリにきちんと応えられるかどうかという能力。
これも、感性と論理性の両方が求められるものではないでしょうか。


例えば、かつて『おバカキャラ』というものが流行りましたが、どんなにテキトーにアホっぽく喋ってる芸能人も、心の底からテキトーでアホだったらブレイクはしません。
それを常に再現できる能力があるからこそ、色んな番組に出て笑いを取れる。
野暮な言い方をすれば、天然系のキャラでも、ある程度は“わかって”やってるわけです。


ファンならばご存知の通り、まーちゃんは爆発性は高いんですが、やろうと思ってやってるわけではない部分が多いので、その辺がいささか不安です。



冒頭にも書いたように、事務所がまーちゃんを外部へ売り込まないのには、そういう一種の“賭け”みたいな要素があるからなのかと思ったのでした。





まぁそれだけの話です。



まーちゃんという人間は底なし沼のようで、考えれば考えるほど飲み込まれていきそうですわ。


あまり分析しすぎるのも野暮ですし、脱出できなくなる前にストップしておきましょう。


本人が感性で生きている(ところが多い)ので、こちらも論理ではなく感性で受け止めたほうがいいという結論に至りました。おつかれした。