今日は小田ちゃんの神秘に囚われた日であった。



単に小田ちゃんの動画を見まくっていたというだけなんですが、なんだろう、あのなんともいえない安心感はどこに由来するものなのか。








ご存知の通り、小田ちゃんは“オダイズム”なる神秘のオーラでもってその特異性を際立たせています。



思い返せばデビュー当時のインタビューで、「欲のない人間になりたい」と言っていたのが印象的。


わかる。わかるよ小田ちゃん。
オレも似たようなことを時々思う。欲さえなければもっとスマートに生きられるのに、と。


でも小田ちゃんは当時まだ中学生。
中学生が「欲のない人間になりたい」と思うというのは、一体どんな人生を送ってきたらそうなるのかと問いたい。



最近では、「人を嫌いになることはない」といった旨の発言をどこかでしていた記憶があります。


これも、言わんとすることはわかる。
良くも悪くも、他人に対してあまり(負の意味で)感情的にならないのだろうと思います。


たとえば自分の悪口を言われても、ただ「そういうものである」と認識するだけで、悲しんだり憤ったりすることが少ない。


そりゃちょっとは残念な気持ちになるかもしれませんが、深く傷つくことはなく、世の中にはそういう人もいるし、自分がそう言われることもあるんだろうなとただ“理解”しているのではないかと推察します。




驚くべきは、そんな思考を十代半ばの女の子がしているということですよ。


せめて三十歳くらいまで、それなりの経験をしてきた人間がそういった考えを持つようになるのならば頷けることですが、小田ちゃんは早くもその境地に至っている。おそらくナチュラルに。遺伝子に刷り込まれているかのように。


だから小田ちゃんは「人生何回目?」なんて言われるんでしょうね。


苦労してそれらを学んだというより、初めから理解していたようなそれ。



どこか、超越している。


そしてその雰囲気に、妙な安心感をおぼえる。



小田ちゃんが、我を忘れることなんてあるのでしょうか。


たぶんある。時に、常人よりも多いのかもしれません。
でもそれは普通の感覚とはちょっとズレていて、「え、そこで?」と言いたくなるような種類のものなのではないかと勝手に思っています。


決して無感動とか感情を表に出さないとかそういうわけではなく、ベクトルがやや違っているのでしょう。


ある意味で、とても素直な人なんだろうなと。






そんなことを考えておりました。



最近よく思うのは、芸能人という仕事でまず乗り越えなければならないのは、“見ず知らずの他人から自分のことを語られること”なのではないかということです←


自分のことを、知ったように他人に語られる。


これを許容できなくては、芸能人はやっていけないでしょうね。


まさにこのブログのように、「○○ちゃんはこういう人なのではないか」なんて語ってるヲタがいるわけですし。


自分だったら耐えられるでしょうか……?


あんまり耐えられる気はしません。


しかし、そうやって他人から語られてこその芸能人。
興味を持ってもらわなければ、仕事としてやっていけないわけですから。





そんなことを考えておりました。








今夜はそこまで眠くならずに済んだのでブログ更新してみたー。



もうちょい続きがあるんだけど、長くなるのでまた明日。