さゆのモーニング娘。人生が夢ならば、我々ファンは、さゆの見ていた夢の一部なのかもしれない。
我々は夢である。さゆの見る夢。
でもさゆが夢から醒めて尚、我々はこうして存在している。
今度は誰の夢になったのだろうか。
モーニング娘。が在る限り、そこに我々は存在し続けるのだ。
さゆがモーニング娘。を卒業して一ヶ月。
さゆのいないモーニング娘。にも少しずつ慣れてきた。
先日は9人でのイベントにも行ったし、12期ブログもスタートして、新たな時代を楽しみ始めているところだ。
じゃあもうさゆロスからも解放されたね。なんて言うと思ったら大間違いなのである。
さゆロスというものが具体的にどういうものかはともかく、いまだにその存在は心に根強く残り続けている。
でももはや、上手く言葉にすることすら叶わない。
それが一番嫌だった。
忘れるということはないにせよ、慣れてしまうことが。
モーニング娘。としては、それでいいのかもしれない。
そうやって続いてきたのがモーニング娘。であるからして。
しかし道重さゆみという存在、その不在にまで慣れてしまうのだ、我々は。
そのことが嫌だった。いつまでも卒業直後の寂しさや空虚さをリアルに味わっていたい。
なのに慣れてしまう。
寂しさは“寂しい”という言葉だけの装飾となり、空虚さはただのハリボテと成り果ててただそこにあるだけ。
あの身を切るような感情。
祝福と慈愛と切なさと無常が渾然一体となったあのなんとも言い難い感情の大波は、今はもうその名残りを留めるに過ぎないのだ。
もちろん、それが生きていくということだ。
別に今生の別れというわけでもないし、なによりモーニング娘。人生をやり切った上での華々しい卒業だった。もしかしてまた復帰してくれるかもしれないという希望もある。
ただ幸せに健康でいてくれるだけで、こちらも幸せというものだろう。
そうやって自分の中で区切りをつけて前に進んでいくのが、生きるということなのだ。
それでも、こうして時が流れて、少しずつ少しずつ、夢が醒めるようにあの寂しさが薄れていってしまうことが、自分はなんとなく嫌だったのである。
とはいえまだ完全になくなったわけではない。
慣れてしまっても、忘れてしまうことはないのだ。
今でもあの卒業ライヴのことを思い出して、ふいに涙ぐむことがある。
それはあのときの寂しさの名残りに触れてのことでもあるが、あのときのさゆの神々しいまでの姿そのものに対しての感慨でもあると最近気付いた。
一時、さゆが卒業発表をしてから、やたらさゆのことを褒め称えるネット記事などが溢れた。
ライターさんや有名人の方々がそういった「いかに道重さゆみという人が素晴らしいか」を熱弁し、ファンの間にもそれは伝播して、良くも悪くも《神格化》なんて呼ばれることも少なくなかった。いやそれは今でもそうか。
神格化。
当初は「おいおい古代ローマかよ」などと思ったものだが、あそこまでモーニング娘。人生をやり切った人に対する賞賛ならば、それもまぁ妥当かもしれない、とも思った。
確かに、あまりに装飾過多な言葉でもって持ち上げるような記事に苦笑いすることはあったものの、道重さゆみが素晴らしいアイドルであったことは事実なので、ことさら諌める気にもならなかった。悪い気はしない、というやつだ。
しかし個人的には、神格化に対しても、そのやりすぎ感について揶揄することも、どちらもピンときていなかったというのが本音。
自分としては、デビューから約12年間ずっと見守ってきたありのままの道重さゆみ像が確固としてあったから、卒業発表後に噴出してきた神格化という概念に影響されることもなかったのだった。
自分にそれが起こったのは、まさに卒業の日、横浜アリーナでのツアー最終公演でのこと。
一般的に知られる「道重さゆみの神格化」は、主に言葉で綴られたものだった。
それまでの業績を讃え、いわば思い出すようなかたちで「どうですこんなに凄いんですよ彼女は」と知らしめるものがほとんどだ。
しかしあの卒業公演の日、横浜アリーナにて自分は、言葉ではなくその姿、可愛いも美しいも通り越していっそ神々しいその姿を見て、自らの内に神格化された道重さゆみ像が形成されたのである。
それはまるで神の奇跡を目の当たりにしたような……とか言うとさすがに胡散臭くなるのでやめるけど、言葉を超越した何かを、あの公演で、遺伝子レベルで刻まれたのは確か。
だから卒業後も、こうしていつまでも忘れられず、慣れてしまうことが嫌だなどとのたまっているのだろうよ。
つまり今の自分には、「12年間見守ってきたありのままの道重さゆみ」と、「卒業公演で見た神々しい道重さゆみ(神格化)」の2つのさゆがいる。
基本的には前者がその位置の大半を占めてはいるけども、ふいに後者が姿を見せたとき、厳かな気持ちになる。
そんな奇跡のようだった卒業公演での神々しい道重さゆみと、それまでの12年間の酸いも甘いも経験してきた泥臭くて魅力的な道重さゆみとが、そこで一体となる。
そして道重さゆみという人の偉大さに改めて気付き、その不在に呆然となる。
最初に言った通り、もはや言葉にすることも叶わない。
言葉にしようとすると、このように意味不明な雑文になってしまうのだった。
きっと、言いたいことはただひとつ。
さゆを送り出す歌、『見返り美人』の歌詞にある通りなのだろう。
ああ ああ
もったいないよ
いい女
テレビを見て、そこに道重さゆみがいないということに不条理さすら感じる。
あんなに可愛くて美人で頭も良くてトークも上手くて人気もある女性が、芸能界にいないだなんて。
でもそれを受け入れられるのは、これまでの12年間のモーニング娘。人生があったから。それを存分に楽しませてもらったから。
複雑である。
ゆっくり休んでね、と心から思いつつ、やはりさゆが芸能かいにいないということが惜しくてたまらない。
でもこればっかりはどうしようもないのだ。
またいつか、道重再生のその日まで、我々はこの不在を、寂しさを噛み締めて、前を向いて生きていくしかないのだ。
頼もしくなった後輩たちの見る夢の一部となって、またサイリウムを振ろう。
その灯りが消えない限り、モーニング娘。は続いていくのだから。

我々は夢である。さゆの見る夢。
でもさゆが夢から醒めて尚、我々はこうして存在している。
今度は誰の夢になったのだろうか。
モーニング娘。が在る限り、そこに我々は存在し続けるのだ。
さゆがモーニング娘。を卒業して一ヶ月。
さゆのいないモーニング娘。にも少しずつ慣れてきた。
先日は9人でのイベントにも行ったし、12期ブログもスタートして、新たな時代を楽しみ始めているところだ。
じゃあもうさゆロスからも解放されたね。なんて言うと思ったら大間違いなのである。
さゆロスというものが具体的にどういうものかはともかく、いまだにその存在は心に根強く残り続けている。
でももはや、上手く言葉にすることすら叶わない。
それが一番嫌だった。
忘れるということはないにせよ、慣れてしまうことが。
モーニング娘。としては、それでいいのかもしれない。
そうやって続いてきたのがモーニング娘。であるからして。
しかし道重さゆみという存在、その不在にまで慣れてしまうのだ、我々は。
そのことが嫌だった。いつまでも卒業直後の寂しさや空虚さをリアルに味わっていたい。
なのに慣れてしまう。
寂しさは“寂しい”という言葉だけの装飾となり、空虚さはただのハリボテと成り果ててただそこにあるだけ。
あの身を切るような感情。
祝福と慈愛と切なさと無常が渾然一体となったあのなんとも言い難い感情の大波は、今はもうその名残りを留めるに過ぎないのだ。
もちろん、それが生きていくということだ。
別に今生の別れというわけでもないし、なによりモーニング娘。人生をやり切った上での華々しい卒業だった。もしかしてまた復帰してくれるかもしれないという希望もある。
ただ幸せに健康でいてくれるだけで、こちらも幸せというものだろう。
そうやって自分の中で区切りをつけて前に進んでいくのが、生きるということなのだ。
それでも、こうして時が流れて、少しずつ少しずつ、夢が醒めるようにあの寂しさが薄れていってしまうことが、自分はなんとなく嫌だったのである。
とはいえまだ完全になくなったわけではない。
慣れてしまっても、忘れてしまうことはないのだ。
今でもあの卒業ライヴのことを思い出して、ふいに涙ぐむことがある。
それはあのときの寂しさの名残りに触れてのことでもあるが、あのときのさゆの神々しいまでの姿そのものに対しての感慨でもあると最近気付いた。
一時、さゆが卒業発表をしてから、やたらさゆのことを褒め称えるネット記事などが溢れた。
ライターさんや有名人の方々がそういった「いかに道重さゆみという人が素晴らしいか」を熱弁し、ファンの間にもそれは伝播して、良くも悪くも《神格化》なんて呼ばれることも少なくなかった。いやそれは今でもそうか。
神格化。
当初は「おいおい古代ローマかよ」などと思ったものだが、あそこまでモーニング娘。人生をやり切った人に対する賞賛ならば、それもまぁ妥当かもしれない、とも思った。
確かに、あまりに装飾過多な言葉でもって持ち上げるような記事に苦笑いすることはあったものの、道重さゆみが素晴らしいアイドルであったことは事実なので、ことさら諌める気にもならなかった。悪い気はしない、というやつだ。
しかし個人的には、神格化に対しても、そのやりすぎ感について揶揄することも、どちらもピンときていなかったというのが本音。
自分としては、デビューから約12年間ずっと見守ってきたありのままの道重さゆみ像が確固としてあったから、卒業発表後に噴出してきた神格化という概念に影響されることもなかったのだった。
自分にそれが起こったのは、まさに卒業の日、横浜アリーナでのツアー最終公演でのこと。
一般的に知られる「道重さゆみの神格化」は、主に言葉で綴られたものだった。
それまでの業績を讃え、いわば思い出すようなかたちで「どうですこんなに凄いんですよ彼女は」と知らしめるものがほとんどだ。
しかしあの卒業公演の日、横浜アリーナにて自分は、言葉ではなくその姿、可愛いも美しいも通り越していっそ神々しいその姿を見て、自らの内に神格化された道重さゆみ像が形成されたのである。
それはまるで神の奇跡を目の当たりにしたような……とか言うとさすがに胡散臭くなるのでやめるけど、言葉を超越した何かを、あの公演で、遺伝子レベルで刻まれたのは確か。
だから卒業後も、こうしていつまでも忘れられず、慣れてしまうことが嫌だなどとのたまっているのだろうよ。
つまり今の自分には、「12年間見守ってきたありのままの道重さゆみ」と、「卒業公演で見た神々しい道重さゆみ(神格化)」の2つのさゆがいる。
基本的には前者がその位置の大半を占めてはいるけども、ふいに後者が姿を見せたとき、厳かな気持ちになる。
そんな奇跡のようだった卒業公演での神々しい道重さゆみと、それまでの12年間の酸いも甘いも経験してきた泥臭くて魅力的な道重さゆみとが、そこで一体となる。
そして道重さゆみという人の偉大さに改めて気付き、その不在に呆然となる。
最初に言った通り、もはや言葉にすることも叶わない。
言葉にしようとすると、このように意味不明な雑文になってしまうのだった。
きっと、言いたいことはただひとつ。
さゆを送り出す歌、『見返り美人』の歌詞にある通りなのだろう。
ああ ああ
もったいないよ
いい女
テレビを見て、そこに道重さゆみがいないということに不条理さすら感じる。
あんなに可愛くて美人で頭も良くてトークも上手くて人気もある女性が、芸能界にいないだなんて。
でもそれを受け入れられるのは、これまでの12年間のモーニング娘。人生があったから。それを存分に楽しませてもらったから。
複雑である。
ゆっくり休んでね、と心から思いつつ、やはりさゆが芸能かいにいないということが惜しくてたまらない。
でもこればっかりはどうしようもないのだ。
またいつか、道重再生のその日まで、我々はこの不在を、寂しさを噛み締めて、前を向いて生きていくしかないのだ。
頼もしくなった後輩たちの見る夢の一部となって、またサイリウムを振ろう。
その灯りが消えない限り、モーニング娘。は続いていくのだから。
