またリリウムネタを書くことをお許しください。
最近では、何か辛いこと、面倒なこと、考えたくないことがあると、夜な夜なリリウムを見て癒されております。
もはや心のオアシス。ってゆうか中毒。
サントラも相変わらず聴いてる。
娘。のアルバムそっちのけで聴いてる。それでいいのか自分。
ところで先日ネットを見ていると、壁ドンに次ぐ胸キュン仕草は“顎クイ”らしいという実にどうでもいい情報が入ってきました。

ふーん。ホントかよ。
ってゆうか顎クイって、音だけだと「顎喰い」みたいな禍々しいものをイメージしちゃうんですけど。
でも待てよ。そういえば壁ドンも顎クイもやってるイケメンがいなかったか。
いた。
壁ドン。

顎クイ。

ファルス……!お前かぁ!
よっぽどリリーが好きとみえる。
「僕の最高傑作だ」って言ってたしなぁ。ご執心だねまったく。
でもさすが3000年以上生きてるだけあって、女子の心を掴むテクをマスターしてらっしゃる。
まぁ結局リリーのことは落とせずに、あんなことになっちゃったんですけどね。
という前フリも済んだところで、ファルスとリリーについて語りたいと思います。
何度もDVDを見て最近気付いたんですが、自分はリリウムをファルス視点で見てるのかもな、と思いました。
自らの孤独を埋めるため、花園を創り、永遠に枯れない花をも作ろうとしたファルス。
それは理想郷の創造であり、ある意味ではハロプロファンである自分の理想郷でもあるのかもしれないなというメタ的投影。
だから最後、崩壊する花園を見て「あぁなんてことを……」と絶望します。
しかしその絶望は甘美で、花園はある意味で永遠になったとも言えるのです。
ファルスにとってはこれまでの苦労が水泡に帰したわけですが、(ファルス視点で見ていながらも当然ながら観客というメタ視点を持つ自分にとっては)崩壊したことによって、逆説的に永久性を得たということ。
加えて、最後の最後にリリーだけ復活し、本当の意味での永遠を手に入れます。
リリーにとっては地獄である永遠は、メタ視点&ファルス視点を持つ自分にとっては果てしなく背徳的な、これまた甘美なる永遠となるのでした。
だから打ち震える。
崩壊という永遠の上に、真の永遠(絶望付き)がふりかけられるわけなので、打ち震えないわけがない。
観客としてのメタ視点と、作中のファルス視点、どちらで見てもそこには背徳的な永遠/絶望が存在しているというわけです。
え、意味がわからない?
いいんですわからなくて。
全部自己満足だから←
まぁ簡単に言えば、客としても見てるけど、ファルスの気持ちになって見てもいるので、こんなに心を揺さぶられるのかもなーということです。
ファルスが羨ましい。
そして、ファルス視点で見ると、リリーに永遠の命キター!となる。
たとえば個人的に一番つまらないと思う終わり方は、みんなクランを旅立って大人になっていきましためでたしめでたし、という感じのやつ。
しかしリリウムは、全員が自決する(ってゆうかさせられる)という凄惨な最後を迎え、永遠の命を持つファルスだけが去っていくという見事な“崩壊”を描き、さらにその崩壊後に、これなら死んだほうがずっとよかったと心底思うほどの絶望的な“永遠”を主人公に背負わせるという、考えた人最悪だな!と全力で賛辞を送りたいほどのバッドエンドで締めくくるという終わり方が素晴らしい。
“ファルスの歌”と末満さんもオーコメで言っていた最後の曲『少女純潔』の歌詞こそが、まさにその気持ちを表しているのです。
枯れることなく咲き続ける花よ 君のことを想い僕は眠ろう
その花はまるで滅びぬ少女のように 永久の美しさを湛えるだろう
まさにこんな気持ち。
そして、
孤独を孤高に変えて気高く咲き誇れ
死すらも傍らに従え 永遠の旅路をゆけ
これこそが、我々(観客とファルス)の願い。
リリー。その絶望的な運命を生きてみせてくれ。
その先にあるものを見たい。
それは生か死か。
不老不死になったんだから“生”でしょう、と言いたいところだけど、この『少女純潔』の最後の振り付けで、リリーまでもが倒れ、そこに立っているのはファルス一人だけという構図にも何か意味がある的な含みを末満さんは持たせていたので、あるいはリリーにもやがて“死”が訪れるのかもしれない。
それを見たい。
じゃないと、いつまでも繭期をこじらせたままですよ。
まぁとりあえず、来年3月に上演予定の『SPECTER』が早く見たいです。
ハロメンは出ないかもしれないけど、もうすっかりこのシリーズの虜なので問題はない。
こんな具合に、いまだリリウムにここまでご執心なハロヲタもそういまい。
みなさん興味なくても、しつこく書きますからね←
いっそのこと「リリウム」でブログテーマ作ろうかな……w
最近では、何か辛いこと、面倒なこと、考えたくないことがあると、夜な夜なリリウムを見て癒されております。
もはや心のオアシス。ってゆうか中毒。
サントラも相変わらず聴いてる。
娘。のアルバムそっちのけで聴いてる。それでいいのか自分。
ところで先日ネットを見ていると、壁ドンに次ぐ胸キュン仕草は“顎クイ”らしいという実にどうでもいい情報が入ってきました。

ふーん。ホントかよ。
ってゆうか顎クイって、音だけだと「顎喰い」みたいな禍々しいものをイメージしちゃうんですけど。
でも待てよ。そういえば壁ドンも顎クイもやってるイケメンがいなかったか。
いた。
壁ドン。

顎クイ。

ファルス……!お前かぁ!
よっぽどリリーが好きとみえる。
「僕の最高傑作だ」って言ってたしなぁ。ご執心だねまったく。
でもさすが3000年以上生きてるだけあって、女子の心を掴むテクをマスターしてらっしゃる。
まぁ結局リリーのことは落とせずに、あんなことになっちゃったんですけどね。
という前フリも済んだところで、ファルスとリリーについて語りたいと思います。
何度もDVDを見て最近気付いたんですが、自分はリリウムをファルス視点で見てるのかもな、と思いました。
自らの孤独を埋めるため、花園を創り、永遠に枯れない花をも作ろうとしたファルス。
それは理想郷の創造であり、ある意味ではハロプロファンである自分の理想郷でもあるのかもしれないなというメタ的投影。
だから最後、崩壊する花園を見て「あぁなんてことを……」と絶望します。
しかしその絶望は甘美で、花園はある意味で永遠になったとも言えるのです。
ファルスにとってはこれまでの苦労が水泡に帰したわけですが、(ファルス視点で見ていながらも当然ながら観客というメタ視点を持つ自分にとっては)崩壊したことによって、逆説的に永久性を得たということ。
加えて、最後の最後にリリーだけ復活し、本当の意味での永遠を手に入れます。
リリーにとっては地獄である永遠は、メタ視点&ファルス視点を持つ自分にとっては果てしなく背徳的な、これまた甘美なる永遠となるのでした。
だから打ち震える。
崩壊という永遠の上に、真の永遠(絶望付き)がふりかけられるわけなので、打ち震えないわけがない。
観客としてのメタ視点と、作中のファルス視点、どちらで見てもそこには背徳的な永遠/絶望が存在しているというわけです。
え、意味がわからない?
いいんですわからなくて。
全部自己満足だから←
まぁ簡単に言えば、客としても見てるけど、ファルスの気持ちになって見てもいるので、こんなに心を揺さぶられるのかもなーということです。
ファルスが羨ましい。
そして、ファルス視点で見ると、リリーに永遠の命キター!となる。
たとえば個人的に一番つまらないと思う終わり方は、みんなクランを旅立って大人になっていきましためでたしめでたし、という感じのやつ。
しかしリリウムは、全員が自決する(ってゆうかさせられる)という凄惨な最後を迎え、永遠の命を持つファルスだけが去っていくという見事な“崩壊”を描き、さらにその崩壊後に、これなら死んだほうがずっとよかったと心底思うほどの絶望的な“永遠”を主人公に背負わせるという、考えた人最悪だな!と全力で賛辞を送りたいほどのバッドエンドで締めくくるという終わり方が素晴らしい。
“ファルスの歌”と末満さんもオーコメで言っていた最後の曲『少女純潔』の歌詞こそが、まさにその気持ちを表しているのです。
枯れることなく咲き続ける花よ 君のことを想い僕は眠ろう
その花はまるで滅びぬ少女のように 永久の美しさを湛えるだろう
まさにこんな気持ち。
そして、
孤独を孤高に変えて気高く咲き誇れ
死すらも傍らに従え 永遠の旅路をゆけ
これこそが、我々(観客とファルス)の願い。
リリー。その絶望的な運命を生きてみせてくれ。
その先にあるものを見たい。
それは生か死か。
不老不死になったんだから“生”でしょう、と言いたいところだけど、この『少女純潔』の最後の振り付けで、リリーまでもが倒れ、そこに立っているのはファルス一人だけという構図にも何か意味がある的な含みを末満さんは持たせていたので、あるいはリリーにもやがて“死”が訪れるのかもしれない。
それを見たい。
じゃないと、いつまでも繭期をこじらせたままですよ。
まぁとりあえず、来年3月に上演予定の『SPECTER』が早く見たいです。
ハロメンは出ないかもしれないけど、もうすっかりこのシリーズの虜なので問題はない。
こんな具合に、いまだリリウムにここまでご執心なハロヲタもそういまい。
みなさん興味なくても、しつこく書きますからね←
いっそのこと「リリウム」でブログテーマ作ろうかな……w