『BOMB』という雑誌に愛ちゃんが載っているわけですが、その中のインタビューで、「後輩を見送るのは複雑な気持ち。そろそろ見送られる側になりたいと感じていた」というようなことが書いてありました。




確かに、後輩ばかりがどんどん卒業していってしまうのは、寂しい気持ちの他に、焦りのような気持ちも持つのかもしれません。




旅立つ者は、いつでも愛しく輝いて見えるものです。




「自分はまだここにいていいのだろうか」と、焦燥感に駆られる気持ちもあるのでしょうね。






そこで思ったのが、「ファンはいつでも見送る側だな」ということです。




いや、当たり前なんですけどねw


ファンが見送られるわけはないんですが、よく考えるとこれは中々辛いことですよ。




中島みゆきの歌にもあります。


《恋の終わりはいつもいつも 立ち去る者だけが美しい 残されて戸惑う者たちは 追いかけて焦がれて泣き狂う》




まるで校長先生のような気分ですよ。


生徒が毎年毎年やって来ては去っていく。一緒に行くことはもちろんできない。卒業してもまた会える生徒もいれば、もう会えない(会わない)生徒もいる。


自分はずっと同じところで見ているだけ。ただただ「卒業おめでとう」と言って見送るだけ。




あまりにも好きになり過ぎると、喜びを、悲しみを、痛みを、決意を、その他諸々の感情を、一緒に共有したくなってしまいます。同じ場所に立ちたくなってしまいます。


でも当然、そんなことは無理なわけで。


同じモーニング娘。のメンバーでさえ、一人旅立つメンバーとすべてを共有することなんて不可能なのです。




こういうとき、『人間は独りだ』、と思います。




ひとりぼっちとか孤独とかそういう意味ではなくて、『自分とは自分でしかなく、自分にとっては自分しかない』という意味です。


え?意味がわからない?w




どれだけ他人と深い絆で結ばれようとも、どれだけ他人を求めて、他人を愛そうとも、己の核を成す部分はやはり『自分』以外にはありえないということです。


自己というプログラムなくしては、『それ以外』という概念も形成されない、といったこと。




なに言ってんの?と思ったあなた。それは正しいw




なにを言ってるんでしょうわたくしは。昼間っから酔っ払ってるわけじゃないですよ。酒は飲みませんw




ですが時々なんともいえない気分になるのですね。


こんなにも人間は溢れているのに、その一人ひとりは結局のところ『独り』でしかないなんて。




誰も「他人」にはなれないのです。「自分」は「自分」でしかない。




そのことが少し、切なくなると同時に、安堵もするのです。








特にオチはありませんw


どうでしょう。愛ちゃんのインタビュー内容から、ここまで話を発展させましたよw




暇だったのでね。哲学的?な感じに書いてみました。




あ、今日は大阪で娘。の新曲イベントじゃないか!




3枚しか応募してないけど、東京当たるかなー。