地球と太陽の間には一億五千万kmという、イメージできる規模を優に超える距離が存在しているというのに、僕が今いる場所はあたかも天然サウナのような殺人的な熱で満たされている。
一億五千万km越しの太陽の光がアスファルトに反射して、それに伴う熱エネルギーがゆらゆらと陽炎を作った。
じっとりと額から汗が染み出てくる。
「夏といえば海」という常套句があるが、あいにく僕が今いる場所は海ではなく住宅街、砂浜の上ではなくアスファルトの上なのだ。
自転車に乗って向かう先は大学のサークルの先輩である希さんが住むボロアパートだ。
ほんの少し前に先輩から突然「暑い」と電話が来て、そうだ納涼しに行こう、と乾いた声で提案してきたのだ。
とくに予定が無かった僕は断る理由も無く、そうですねとぼんやり答えた。
先輩の言う「納涼」は「心霊スポット巡り」に換言できるのを承知の上で、僕はそれなりに覚悟を持って家を出る支度をした。
先輩は異常な程霊感が強い。いわゆる「見える人」だ。
僕も霊感はそこそこあるほうだと自負しているのだが、どうもあの人には敵う気がしない。
毎回先輩に心霊スポットに連れてかれては怖い目に合うのだが、それを僕は意外と気に入っていたので、少し期待しながら家を出た。
そして後悔した。今日は暑すぎる。これは先輩の家に着く前に干からびる。
ミンミンと蝉の声がして天然サウナに拍車をかける。
ダラダラと自転車を漕いでやっとの思いで着いたボロアパート。本当に長い旅だった。
ドアをノックすると中から「空いてるぞー」とやけに間延びした声が聞こえてきた。
知ってますよ、先輩に防犯という概念が無いことくらい。
中に入って先輩のいる居間へ向かうと、先輩がタンクトップに短パンという無防備すぎる服装で寝転がりながら暑そうにうちわを扇いでいた。
「先輩、無防備すぎませんかー?」
いつもの僕ならもう少し慌てたかもしれないが、なんといっても今は暑さで体力を消耗している。
よって無駄なリアクションは控えておいた。
「仕方ねぇじゃん。暑いんだから。」
「同感です。」
僕も片付いていない床に落ちていたうちわを手に取り、胡座を掻いて座る。
壁に掛かっている古そうな時計は午後に少し足を踏み入れたところでチクタクと等間隔で針を動かしている。
部屋の中もやたらと気温が高かったので、このままでは発する言葉すべてに「暑い」というワードが含まれてしまいそうだ。
「ところで今日はどこに行くんですか?」
「行ってからのお楽しみだ。夜まで待て。」
「夜までですか?この時間になんで僕は呼ばれたんですか?」
笑いながら言うと、先輩はそのへんに落ちていた財布を拾い、五百円を僕に渡してきた。
「アイス買ってきて。」
僕が露骨に嫌そうな顔をすると、先輩はニヤリと笑って、「このためだ。」と言った。
僕がコンビニで冷たいアイスを二つ買って帰ってきても先輩はさっきの姿勢を崩していなかった。
「おかえりー。」
「買ってきましたよ。」
コンビニの薄い袋を先輩に渡す。
「おぉー、私の好みをズバリ当ててきたな。偉い偉い。」
褒められて悪い気はしなかった。
悪い気はしなかったのだが、少し照れ臭い気持ちもあった。
「直射日光の中を勇敢にも進撃していったんだから、もっと褒めてくれてもいいですよ。」
照れ臭さを振り払って言うと、先輩は少し笑って、調子に乗るなと言った。
夜まで時間があるにも関わらず先輩が僕をここに呼んだのは単純に暇潰しらしい。
アイスも食べ終わってしばらく二人でだらだらと喋っていると、流石に話題も尽きてきた。
「しかし、暇ですね。トランプでもやります?」
「二人でやって悲しくない?」
言い返す言葉が見当たらない。
それは紛れもなく事実だからだ。
「じゃあUNOでも。」
「同じだろ。」
「じゃあチェスでも。」
「ルールを知らない。」
「そしたらと○メモでも。」
殴られた。
「お前、さては私をバカにしてるな?」
見える…、見えるぞ…!!先輩の怒りが!!
流石に恐怖を覚えた僕は慌てて言った。
「い、いや……!そんなことないっす!先輩サイコーです!飲み物でも買ってきましょうか!?」
先輩は呆れた顔をして言った。
「ふん…、まぁいいや。暇なのは確かだし。それでお前を呼んだんだしな。」
ほっとして胸を撫で下ろすと先輩は言った。
「しかし、まだ3時か。」
僕はそこで一つ引っ掛かるものがあった。
………3時?
以前、先輩は先輩の友人から厄介事を引き受け、自己犠牲によってそれを解決してしまうということがあった。
厄介事とは、つまり、3時になると幽霊が姿を現す、というものだ。
もう3時を回った。
しかし、先輩に取り憑いたはずのその厄介事は、一向に姿を現さない。
「先輩、そういえば、こないだの絵の……。」
聞いてみると、先輩は思い出したように言った。
「あぁ、あれはな……。食われた。」
………?
食われた?何に?
僕が「理解不能」を形にしたような顔をしたのに気づいて先輩は話し続ける。
「前に言っただろ。あれよりヤバイのが憑いてるって。」
まさか……。
冷たい感覚が僕を襲う。
「先輩に憑いたそいつが……?」
「あぁ、食った。」
あっけらかんと言う先輩に絶句して、僕は恐る恐る聞いてみた。
「せ、先輩に憑いたその化け物って、何なんですか。」
先輩はニヤリと笑うと、悪戯っぽく言った。
「知りたい?」
なにか聞いてはいけない気がした。
それは、目の前にいる他でもない先輩に恐怖を抱いたからで。
いや、語弊があった。先輩の後ろにある、なにか黒いものに脅えていたのだ。
何故そんなに暗いのだろう。あなたはいったいどんな道を歩いてきたというのだろう。
今まで僕は先輩のことを知らなさすぎた。
しかし、今、先輩の後ろの黒いものが何であるのかを聞き、受け止める覚悟があるのか、聞かれたら答えられる自信がない。
僕が黙りこんでしまったのを見て、先輩は一つ溜め息をついた。
「また今度、教えてやる。」
待ってください、という言葉が出てこなかった。
またこうして希さんという一人の人を知る機会を逃してしまった。
くそ…、なんで僕は…。
いや、今もっと言うべきことがあるだろう。
自己嫌悪に陥っている場合じゃない。
「先輩。」
「なんだ。」
僕はあまり人の目を見て話すことが得意じゃない。
しかし、このときだけは先輩の目を見て話せたとおもう。
「僕がそれを聞く覚悟が出来たら、必ず聞きます。」
先輩は少し驚いた顔をすると、今度は優しく笑ってくれた。
「お前、口下手だなぁ。」
僕は少し間を置いて言った。
「先輩に言われたくないですよ。」
僕はまた先輩から目を逸らした。
「先輩、ところで、今日はどこに行くんですか。」
あの話をした後の、気まずい沈黙を更に悪化させる前に僕は勇気を出して沈黙を打破した。
「私が今までお前にそういうのを話したことがあったか?」
無愛想に答える先輩はあくまでいつもどおりだった。
「たしかにそうですけど。」
苦笑いが漏れる。
「わりと近場だからな。自転車の後ろ乗っけていけ。」
「えぇー、自分でも漕げるじゃないですか。」
先輩の漕ぐ自転車は異常な程速いのだ。
その自慢の脚力を持ってして、この非力な一般男子に自分を乗せた自転車を漕がせるとは。
……いつもどおりだが。
「なんだ、その、面倒じゃないか。」
僕の意見はこのようにしていつも潰されていく。
まぁいいのだが。
僕が渋々承諾して、それからまた日が暮れるのを待った。
結局トランプでポーカーをやったりしたのだが、先輩が飽きたと言ったので早々に打ちきることになったりもして、だらだらしていると漸く日も落ち、辺りは暗くなっていた。
「そろそろ行きますか?」
「いや、深夜のほうがいい。それより腹が減らないか。」
だいたい言わんとすることがわかった。
そうですね、と相槌を打つと、先輩は急に笑顔を作った。
「作ってくれてもいいんだぞ?晩飯。」
……やっぱりか。
僕は呆れた顔をして席を立つ。
いや、正確には床を立つ。
そして台所に向かう前にせめてもの一言を放った。
「そんなんじゃいつまで経ってもお嫁に行けませんよ!」
僕が手早く料理を作ると、先輩は満足げにそれを口に運んでいく。
食べ終わると先輩は少し寝ると言って敷きっぱなしの布団に潜りこんだ。
暇をもて余した僕は食器などの片付けを終えるとショルダーバックに仕舞っていた小説を手に取った。
全く、これ以上なく非生産的な休日だ。
これなら、追跡してくる緑色のキノコから逃げながら赤コインを八枚集めるという超高難易度の所業を為し遂げ、その動画を投稿するような輩のほうが生産的かもしれない。
まぁ、どうせやることも無いからいいか。
こうして退屈しているが、実はさっきからあちこちにいるのだ。この世のものではないモノが。
しかし大した代物では無い。
それは先輩が言っていることだが、僕もそう思う。直感がそう言っている。
まぁ家主があんな人だ。
いくらかいるものなんだろう。
大した代物では無いにしろ、何もしていないとそれが気になってしょうがない。
そういうわけで僕は手に持った小説を開いた。
持ってきた小説は思っていたより面白く、僕はしばらく時間を忘れるほどのめり込んでいた。
やけに大人びた男子高校生が学校で起こる謎を一人の女子のためになるべく最小限の労力で解決しよう、という内容だ。
章が終わったところで時計に目を移す。
なかなかいい時間になったと思う。
そろそろ先輩を起こすことにしよう。
僕は先輩が眠る布団を揺さぶる。
「先輩、起きてください。」
幸い、今回はわりと寝起きがよく、すぐに先輩は起きた。
「着替えるからお前はちょっとそっち行ってろ。」
先輩が多分朝から着替えていないことを思い出す。
僕は素直にドアの外で待っている。
殆ど時間が経たないうちに先輩はジーンズに薄手のTシャツ、トップスを着て、部屋から出てきた。
「さ、行こう行こう。」
玄関から出たとき、もう昼の異常な暑さはどこかへ消えてしまっていた。
夜の街灯と月明かりを頼りにして僕は先輩を乗せた自転車を漕ぐ。
ライトは自転車の動力で動くタイプだ。ペダルが重くなるのはあまり好ましくない。
夜風に吹かれて涼しげな先輩が指示した通りの道程を進むと、途中から烏の鳴く声が聴こえた。
夜なのに、烏。
以前先輩が僕に話してくれた体験談に、夜に烏が鳴いた日の話があった。
こういう日はろくなことが起きないらしい。
僕は夜風の涼しさとは別の、冷たさを感じた気がした。
「しっかし涼しいなぁ。」
呑気に先輩が言いながら、「あ、そこ右」と指示を出す。
夜空に輝く月に雲が掛かってきた。
街灯は真っ直ぐに伸びる道にいくつかあるが、異常に間隔が広い。
恐怖を頭から追い出そうと、僕は目に見える街灯の数を数え始めた。
橙色の街灯、白い街灯、
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ
橙色の街灯より白い街灯のほうがなんとなく不安感を覚える。
白い街灯の横を通り過ぎるくらいで少し体が硬直してしまう情けなさを改めて自覚し、僕はもうすこし強くなろうと思った。
街灯を数えているうちに、ひとつ、街灯ではない白く光るものを見つけた。
それはやたら広い街灯の丁度中間あたりにぽつんと立っていた。
「あれは……。」
先輩が僕の肩を叩く。
「おい、あれだ。止めろ。」
あれは、公衆電話だ。
自転車を一旦公衆電話から五歩くらい離れたところに止めておく。
先輩は早速公衆電話の中に入って財布を取り出した。
僕も公衆電話の中に入ると、相当窮屈になった。
当然だ。本来一人で中に入るものなのだから。
先輩が硬貨を入れて番号を押す。
その番号には見覚えがあった。
「それって先輩の家電の番号じゃないですか。」
先輩はそれを聞くとニヤッと笑って「まぁ見てろって」とだけ答えた。
先輩が受話器を指差す。
もっと近くで聞け、という意味だろう。
言われるとおりにしたら先輩の顔がすぐそこにあったのだが、今はそんな余裕は僕にはない。
先輩の家は留守なのだから、当然留守電になるに決まっている、と思った。
しかし、僕の、というか一般に考えられる常識があっさりと覆されてしまった。
――繋がった。
「なんで!?」
僕が言うと先輩は人差し指を唇に当て、「静かに」のジェスチャーをしてきた。
電話の向こうからは何も聞こえてこない、ように聴こえた。
いや、なにか聴こえる。
言葉で現すなら
くつくつくつ、くつ、くつくつ
のような謎の擬態音がまず聴こえた。
なんだ、これ。
僕は頭を整理出来ずにいた。
留守にしている筈の先輩の家にこの公衆電話から電話をかけると、留守電にならずに繋がった。
そして、繋がった先はこの妙な擬態音。
なんだ、これ。
冷や汗が流れる。
寒い。なんでこんなに寒いんだ。
昼間の猛暑は一体どこへいったのか。
そこで電話から別の音が混じり始めていることに気づく。
くつくつ、く、ひゅっ、くつ……オひゅー、とん、とん、くつ…、ピーブ…ブ、ぶ、ザザッ、キィィー、くつ……とん…いいーいー、ん、プツ…くつ……ザザッ
ノイズ混じりになってくるのと共に音も大きくなる。
嫌だ。なんだ、これ。
くつ、とん、ビー、ひゅー、ギュリャリャ、スパっ、ピー、ジジッザッ、ナーのー、プチゅっ、ぎぃ、ザッザザッ
先輩は受話器を持ってにやついてるし。
「先輩…っ」
先輩は受話器を持ったままだ。
すると、一度音が途切れた。
なにかと思うと、今度は男の声がゲラゲラと笑っているような音が流れた。
受話器は笑い続ける。
ゲラゲラ
ゲラゲラ
……わけがわからない。
先輩に「止めましょう」と言おうとしたときだった。
ヴァアアァアアァアアア!!!
嫌悪感の塊のような大きな音が受話器から流れて、僕は耳を塞ごうとした。
「うるせぇ。」
そこでようやく先輩が受話器を電話の横に置いた。
無音の世界に残された二人。
しかし、その無音の世界も長くは続かなかった。
「な……、」
と言ったところで突然公衆電話が鳴り始めた。
リンリンリンリン!!
不可解な出来事に肩がビクっと跳ねた。
なんで……、公衆電話にかかってくる…?
リンリンリンリンリン
不快感が漂う音に耳を塞ぐ。
しかし、その音は耳を塞いだにも関わらず、全く同じ音量だと僕の脳は言っている。
リンリンリンリン
なんだこれ……
なんだこれ……
なんだこれ!!
慌てた僕の頭に誰かの手がポンと置かれた。
先輩が「落ち着け。」と芯の通った声で言った。
僕は先輩を見て、少し冷静をとり戻した。
「取るぞ。」
深呼吸を一つして僕は頷く。
先輩が受話器を手に取った。
リンリンリンリンリン
しかし、先輩が受話器を取ったのにも関わらず公衆電話は不気味なコール音を鳴らし続ける。
僕がそのことの意味を理解したそのとき、先輩が大きく息を吸った。
「この根性無しが!!!!なめてんのか!!!!」
ほんの一瞬の間があった。
そして、僕の服のポケットから聞き慣れた音楽が流れた。
これは……、着信音だ。
先輩の携帯にも同じように着信が入ったようだ。
そして、ついにこの公衆電話までもがガタガタと揺れ始めた。
「逃げましょう先輩!!」
先輩の手を引く。
「当たり前だ!ずらかるぞ!」
そのとき、僕はそこでまた恐怖を覚える。
先輩でさえ敵わないほどのやつなのか。
全力で先輩を乗せた自転車を漕ぐ。
ある程度離れるとまだ鳴っていた二人の着信音は同時に止まった。
「……。」
何も言えずにいると、先輩のほうから口を開いた。
「あれは…、やばかったな。」
「…はい。」
僕は力無く応える。
先輩はいつもどおりでは無かったが、空元気のように少し笑った。
「納涼にしては……、ちょっとハードすぎたな?」
僕はそうですねとやはり力無く答えた。
「おい、元気出せ。」
先輩はあくまで明るく言った。
そこまでされて言葉がやっと絞り出てきた。
「寒く、なりましたね。」
僕と先輩が先輩の家に引き返すと、先輩はあの公衆電話について説明してくれた。
なんでも、あの中で三人が自殺していたらしい。
それが男か女か、大人か子供かは先輩は知らないという。
そして、あの公衆電話で深夜に誰もいない自宅に電話をかけると……、というまさに根も葉もない噂が流れたのだという。
「それが本当か今日納涼ついでに試しに行ったんだけど」
僕は苦笑いをつくる。
「本当でしたね。」
そう言いながら僕は携帯を開く。
着信は無い。
あの公衆電話の中でこの携帯にかかってきた着信はいったいなんだったのか。
あの音は、あの笑い声は、あの叫びは、そしてあのコール音はいったいなんだったのか。
謎ばかりが残ったが、しかし
知らなくていいこともある、と僕は自分に言い聞かせる。
携帯をパタンと閉じ先輩を見ると、先輩の目線は台の上に置いてあった家電のほうを向いていた。
僕も視線をやる。
点滅しているボタンがあった。
留守電のメッセージ再生ボタンだ。
心臓がまたドクンと跳ねた。
先輩は家電に近づいていき、こっちを向いて言った。
「再生するぞ。」
僕が固まっていると、先輩は躊躇うこと無くボタンを押した。
ゆっくり、小さく長い音が随分低い音程で発されている。
冷や汗がまた吹き出てきた。
得体がしれないものが今日は多すぎる。
先輩も僕も黙ってそれに耳を傾けているとしばらくして、それは二つの単語を言っていることがわかった。
それは
先輩と僕の名前であった。
完。