AIは神に近いものなのか、宗教に反するものなのか、EUで規制が厳しいのはそのせいであると言う説もありますが、古代の人がAIにつながる何かしらの世界を描いていたのかどうか、よく調べる必要があるかもしれません。

 

人の未来を見ていたのなら、AIと言う具体物でなくても、何らかの形で描いていたかもしれません。

 

しかしAI。

 

これもう本当だったら全人類が仕事を辞めてこの事に集中しなければいけない案件なのかもしれないのです。

 

これまでの人間の様に普通に病気や老衰で死んでいくと言う運命も変わるかもしれません。

 

変わらなくてもその意味や構造が分かるかもしれません。

 

そう言った人間の普遍的な形を変えうる力があるのです。

 

しかし、そうでない方が良いと言う人もいるかもしれません。

 

しかし人間の可能性をこれ以上に広げる事が明らかなこの案件に集中せずに現在進行形の事柄や過去を振り返って「忘れてはならない」とかいまだにやってます。

 

このまま普通に食べて飲んでるだけだったら、その代償として誰でもいつか普通に死ぬ訳です。

 

この太古から続く人間の運命に新たな打撃を加えるかの様に出現したAI。

 

もちろん不死とかそういう事でなくても、この人間の当たり前のサイクルを終わらせる可能性があるのです。

 

「それが人間さ。」と言う諦めの世界視点を今後も続けていくのでしょうか。キョロキョロ

 

普通の日常感覚で言うとビッグフットいない感じしますが、日本列島よりも広いロッキー山脈のあの密生した森を見ると分かりません。

 

広くて深くて探しようが無いです。

 

木がありすぎて見えないのです。

 

人が入れない訳です。

 

どこか遠くに黒い人影を見たとしてもそこに行き様がないです。

 

つまりそこ自体が太古から変わらぬ姿をしているので人が知らない何かが沢山ある訳です。

 

一番有名なパターソンフィルム以外でも良く公開される映像の中のいくつかは本物かもしれません。

 

北米と違い日本では詳しく書かれた本もないので、やはりあの映像だけでは嘘と思ってしまいます。

 

でもまずはグーグルストリート等であのロッキー山脈を見てくださいと思うわけです。

 

日本の森などと言う狭いものではないのです。

 

人が行けない深海の様でもあり何かがあるのです。

 

ビッグフット調査したと言う文があったとしても、いや、そもそも広すぎて調査できないのです。

 

広大なロッキー山脈を把握する費用など無いのです。えー

 

例えば大きな事件が起きてテレビで「犯人は誰だ?どこだ?」と思っていても、早い段階で警察の方では犯人は分かっていて証拠を収集中です。

 

犯人が分かっていてもそれを報道陣に教えてしまうとテレビで放送されてしまい犯人が証拠を隠滅してしまうから決定的な証拠を押さえてから逮捕なので時間がかかるのです。


つまりテレビで放映される事は極めて中途半端な内容であり、ある意味では犯人を騙して安心させているのです。

 

こう言う意味でテレビは警察による操作で犯人を騙す「放送道具」とも言えます。

 

まるで警察が混乱している様に放送して見せて犯人を騙すのです。
 

そう言った意味では、そう言う権力による放送道具と知らずに一般大衆まで騙され、まるでリアルで本当の捜査進展を自分も利口に見届けれているかの様に錯覚をさせるのです。

 

多くのニュースやテレビの本質はそれです。

 

単に出来事を伝えるだけと言う役に立たない物ではなく、むしろそれ以上に人を騙す道具であるのです。

 

そう言う物を我々は犯人と一緒に見せられて喜んでいるのです。キョロキョロ

 

さてですが近頃、街中で奇妙な光景を目にすることがあります。

 

その光景は、路上でワンカップ日本酒を片手に徘徊する「路上日本酒父さん」と、コーヒーショップやカフェでパソコンを使いながら過ごす「パソコン父さん」です。

 

この二つの対照的な姿勢が、現代社会における異なる価値観や生き方を反映しているように思われます。

路上日本酒父さんは、仕事がなくなり、生活に行き詰まった人々の象徴と言えるでしょう。


彼は、自動販売機やコンビニから手軽に手に入るワンカップ日本酒を手に、路上を徘徊しています。

 

この光景は、失業や社会的孤立に苦しむ人々の姿を象徴しており、彼の存在は私たちにとって社会問題について考えさせられることが多いです。


路上日本酒父さんの姿は、経済的な困難に直面する多くの人々が、どれだけ厳しい状況にあるのかを示しています。

一方、パソコン父さんは、現代社会での新たな生き方を模索している人々の一例です。


彼は、コーヒーショップやカフェなどの公共の場で、ノートパソコンを使いながら仕事をしています。

 

彼の姿勢は、自由な働き方やデジタルノマドとしての生活を選ぶ人々の一部を代表しています。


彼らは、場所に縛られずに仕事をし、新しい価値観を持つことで、伝統的なキャリアパスから逸脱しています。

「路上日本酒父さん」と「パソコン父さん」は、現代社会の複雑さと多様性を象徴する存在と言えます。

 

一方は経済的な苦境に立たされ、もう一方は新たな生き方を模索していますが、どちらも社会の一部であり、私たちが理解し、支援する必要がある存在です。

 

また、彼らの存在は、私たちにとって現代社会や生活や仕事の在り方について考える契機ともなり得ます。

この話題を通じて、私たちは社会の多様性に対する理解を深め、個々の選択や困難に対する共感を育み、共により良い社会を築くための一歩を踏み出すことができるかもしれません・・・。

 

さて人生は一度きりで、私たちには限られた時間しかありません。


人の生命に決められた時間は、地球の歴史の中で極めて短いものです。

 

それで、私たちはこの短い時間をどのように過ごすべきか、という問いについて考えることがあります。


特に、このブログでは「バカ騒ぎ」についての議論をしましょう。

まず、何を指して「バカ騒ぎ」と言うのか、その定義を明確にしましょう。


バカ騒ぎは、ある意味では生活における楽しみや冒険、冷静な計画を無視して楽しむことを指します。

 

しかしこれは、ある視点から見る上では、無謀なことをすることではなく、時にはルールを破り、思い切って楽しむことです。

1000年も無い一度の人生で、バカ騒ぎは本当にしてはいけないことなのでしょうか?


経験を通じた学び: 

バカ騒ぎを経験することは、新しいことを学び、成長する機会でもあります。


自分の限界を試し、失敗から学ぶことは、人生の中で非常に貴重な体験です。


ストレスの解消:

現代の生活はストレスに満ちています。


バカ騒ぎは、日常のプレッシャーから解放される手段として機能し、精神的なリフレッシュをもたらします。


繋がりを築く: 

バカ騒ぎは友達や家族との絆を深める機会でもあります。


一緒に楽しむことは、関係を強化し、思い出を共有するチャンスです。


クリエイティビティの源泉:

バカ騒ぎは創造性を刺激し、新しいアイデアや視点を生み出す可能性があります。


無駄に見える時間が、後で素晴らしいアート、音楽、文学などに繋がることもあります。


以上これらが挙げられますが、もちろん、本当に無謀なバカ騒ぎは問題です。


安全を無視し、他人に害を与えることは避けなければなりません。

 

しかし、計画的かつ責任あるバカ騒ぎは、人生における豊かな体験を提供し、成熟し、幸福を見つけるのに役立ちます。

一度の1000年も無い人生を全力で楽しむために、バカ騒ぎを恐れずに経験し、成長し、愛する人々と共有しましょう!


バカ騒ぎは、私たちの人生に魅力的で豊かな要素の一つであるべきです!