最近に思いついた事にメモです。機会があれば深く掘り下げて記事にしたいと思います。


□ 「日本脳では限界あり」政治から経済、社会まで、もう日本人同士でガヤガヤと問題解決は無理でして今後はAIと外国人の介入でしか救われないのです!


□ そもそも手動運転などは車内になると人格豹変したりオラオラになったりする人いるのだがら確率からいっても圧倒的に自動運転のが安全です!


□ 我々はバラ科サクラ属の桜ではない。人間だ。


□ AIが普及してこそ本当の意味での旧来の人権無視時代を終える事が可能です!


□ 現状「人間にしかできない事がある」と言っても、それはミケランジェロとかの歴史的秀才人物のレベルであって、普通の一般人のレベルであればAI使用した方が良い訳です。「最後の審判」のレベルの絵はAIではまだ作れないでしょうね。細かい部分になるとAIだとつじつまの合わない適当な絵になると思います。


□ 古代中世で言うと今我々は、毎日水晶石の様な物(モニター)を見つめながら中に映る世界を見てああだこうだとやっている魔術師みたいな物です。この様に現代では古代と全く違う生き方をしている訳ですが、今度はAI社会でもっと変わるのです。


□ 日本やばし。いまだ日本実写映画トップは20年前の「踊る大捜査線」そして超古い「南極物語」など。もう韓国映画見るしかない。

 

 

 

 

 

皆さん、こんにちは。


今回は現実という厳しいものについてお話ししたいと思います。

 

私たちは日々、現実と向き合いながら生活していますが、その現実は容赦なく私たちを試し続けます。


時には希望を打ち砕き、困難な試練を与えてくるのです。

現実は、夢や願望が一瞬で崩れ去る場所です。私たちは多くの場合、理想や目標を抱いて生きています。


しかし、それらを達成するためには努力や犠牲が必要です。現実は、その努力が報われない場合もあることを教えてくれます。

 

時間と労力をかけたプロジェクトが失敗に終わったり、人間関係が崩壊したりすることもあります。


それは私たちにとって非常につらい経験かもしれませんが、現実は容赦なくそのような試練を与えるのです。

また、現実は時に不条理な出来事をもたらします。


私たちは理性や論理に基づいて行動しようとしていますが、現実はその理性を打ち砕くこともあります。

 

突然の災害や病気、不意の失業など、私たちがコントロールできない出来事が私たちの人生に舞い降りることもあるのです。


これらの出来事は私たちにとって大きな苦痛となるかもしれませんが、現実は容赦なく私たちに挑戦を投げかけるのです。

さらに、現実は私たちの弱さや欠点を露呈させる場所でもあります。


自分自身や他人と比較されることで、私たちは自身の限界や不完全さに直面します。

 

成功者の物語や完璧なイメージが私たちの心を侵し、自己評価を下げることもあります。


現実は容赦なく私たちを揺さぶり、自己否定の感情に苦しめるのです。

しかし、現実の容赦なさには必ず意味があります。


現実が私たちに与える試練や困難は、私たちが成長するための貴重な機会でもあるのです。

 

困難を乗り越えることで、私たちは自己成長し、より強くなることができます。


現実の容赦なさは私たちに真実を教え、謙虚さや努力を学ばせてくれるのです!

ですから、現実と向き合う際には勇気を持ちましょう!

 

容赦ない現実が私たちに与える試練は困難かもしれませんが、それを乗り越えることで私たちは成長し、新たな可能性を見つけることができるのです。


現実の容赦なさに立ち向かい、自分自身を信じて前に進みましょう。

結論として、現実というのは容赦ないものです。しかし、その容赦なさには私たちが成長するための意味があります。

 

現実に直面することで、私たちは自己成長し、強くなることができます。


だからこそ、現実の容赦なさを受け入れ、前に進む勇気を今こそ持ちましょう!

 

皆さん、こんにちは。


このブログ記事では、私自身が独自の視点から日本の価値観について考えるその気持ちをお伝えしたいと思います。

私、江嶋(えじま)は、日本国内にいながらも、日本に対する独自の視点を持っているのかもしれません。


それはまるで架空の存在「在日江嶋人」とも言える様な、一風変わった視点なのかもしれません。

日本は素晴らしい国であり、多くの価値観や文化が息づいています。


しかし、私はこれらの価値観が必ずしも自身の全てに適用されるべきだとは考えないのかもしれません。


私自身、日本の伝統や規範に縛られず、自分自身の視点や価値観を大切にしたいと思っています。


そのため国内に住む独自の「江嶋人」として、自分の道を歩んでいく決意を持っているのかもしれません。

日本社会では、一般的に古くから共通の価値観や行動基準が存在します。


しかし、個々の人々は異なる背景や経験を持っており、それに基づいて独自の考え方が生まれます。


私もその一人であり、自身の経験や考えを大切にし、それを大きな財産と捉えています。

在日江嶋人という表現は、私が日本国内に存在しながらも、一種の「文化的な外国人」としての立ち位置を取ることを意味するのかもしれません。


これは決して否定的なものではありません。


むしろ、私は日本という国で育まれた環境から得た多様な影響を受けながらも、自分自身のアイデンティティを確立し、新たな視点を持つことに誇りを感じています。

日本の言葉や文化、風習は美しいものですが、それがすべてではありません。


私は、日本の価値観だけでなく、世界のさまざまな文化や考え方にも耳を傾け、学び取ることが大切だと信じています。


自分のアイデンティティを持ちながらも、他者との交流を通じて新たな視野を開拓することが、個人の成長に繋がるのではないでしょうか。

総括すると、私は日本の土地に足を踏みながらも、日本の言う事を聞く気持ちがあまり無く、独自の価値観や視点を尊重し、自己成長を遂げていきたいと思っているのかもしれません。

江嶋人として、日本に滞在しながらも、自分自身のアイデンティティを大切にし、多様な視点から国内と世界とを見つめていきたいと考えているのかもしれません。

皆さんも、どうぞ自分自身の視点を大切にし「在日○○人」(○○は、あなたの名前)として捉え、新たな可能性を探求してみてください。


それが、より豊かな人生への一歩となることでしょう!

 

さて近年、この日本国内において、為政者の本来の役割と国民の幸福に関する議論がますます激化している様に思えるのです。

 

一部の為政者は、自身の信念や理念のみに酔いしれ熱中するあまり、一番大切な国民の幸福よりもその信念を追求する傾向があると指摘されている様です。

 

この問題をアダム・スミスの国富論と結びつけて考えてみることで、為政者の行動と国家の健全な発展について新たな視点を得ることができるかもしれません。


アダム・スミスは、18世紀に「国富論」を発表し、個々人が自由競争の中で自分自身の利益を追求することが、結果的には国家全体の繁栄と幸福をもたらすという主張を行いました。

 

この考え方は「見えざる手」として知られ、市場経済が自己調整的に働くことで最適な結果が得られるという信念です。


個々人の自己利益追求が、結果として国民全体の福祉向上に寄与するというのが、スミスの理論の核心です。


一方で、為政者が白昼堂々に夢を見て自身の信念に酔いしれている場合、その信念が国民の幸福と相いれないことがあります。

 

為政者が独自のイデオロギーや利益追求に固執し、国民の幸福や利益を犠牲にすることは、社会的な不平等や不満を思いっきり引き起こす可能性があるのです!

 

 

スミスの理論が強調するのは、個人の自己利益追求が制約された市場経済の中で成り立つという点であり、為政者の選択も国民全体の幸福に寄与するようなバランスを取るべきだと言えるでしょう。

結局のところ、為政者の信念とアダム・スミスの国富論は、相反するように見えるかもしれませんが、適切なバランスが求められます。

 

為政者は自身の信念を大切にしつつも、それが国民の幸福と調和する方法を見つける必要があるのです。



単なる自己満足や利益追求に固執するのではなく、国家全体の長期的な繁栄と幸福を追求するために努力することが非常に大切となってくるのではないでしょうか。

つまり、為政者の役割は単なる「信念追求」だけでなく、国民の幸福と繁栄を促進することにあります。

 

アダム・スミスの国富論は、自己利益追求が国家全体の幸福に寄与するという理論ですが、それを実現するためには為政者が賢明な判断とバランス感覚を持つことが不可欠です。

 


これからも、為政者の国民の声を聞く姿勢を国民は監視し続ける必要がある・・・と強く思うのです!

 

本日のこの記事では、私の個人的な思想を一つの考え方として紹介します。

わたしはネットでビジネスを学び始めてから「サザエさん症候群」という言葉をよく目にするようになりました。


私自身はテレビをあまり見ないし、周りにもサザエさんを見ている人はいないため、この症候群が本当に存在するのか疑問に思ってしまいました。

冷静に考えると、サザエさんを見た後にこの症候群を発症するというのは、どれだけ悲しい日々なのだろうと思わずにはいられません。

この症候群は、サザエさんに限らず、日曜日の夜にテレビ番組を見ることで、月曜日からの仕事に恐怖と不安を感じる状態を指すようです。

では、テレビとは一体何なのでしょうか?


「テレビジョン(Tele-vision)」とは、遠くから飛ばされた映像を見る機械のことです。


テレビの歴史は意外にも浅く、テレビ放送が始まったのは1953年です。


それから現在まで人間界に君臨していることになります。

人間の脳は、神が創造したとも言われており、もともとは猿の脳から進化して現在に至ったものです。


何百万年もの時間をかけて進化し続けています。

しかし、たった1953年から始まった映像受信機の虜になり、それが夢見心地から現実世界(月曜日からの仕事)に戻る際の恐怖になってしまっているのです。

日本人は、ある意味でテレビに対しての崇拝心が強い民族だと思っています。


私自身もスポーツではプロレスしか見ないほど、プロレス好きでした。


こう言いたくはありませんが、日本では敗戦の歴史があり、また戦後の白黒テレビに映る力道山が戦後の日本人に夢を与えたという事実があります。

私もその世代の子供であり、両親も毎日数時間テレビを見ています。

 

テレビ → 力道山 → 夢を与えた。

 

というストーリーが、非常にドラマティックで美しいため、テレビは人類に欠かせない存在となっているのです。

さて話は飛びますが、しかし、現在や将来の生活で、そのような生活を維持すると、ポイントを与えられて、恐怖感を麻痺させる生活を続けることになります。

私の思想では、「ポイント」は非常に巧妙で危険な罠だと考えています。


具体的にどういうことかと言うと、最近コンビニでポイントアプリの提示を求められることがありますが、商品を購入するたびにポイントが貯まります。


たまると少しお得になるのですが、そのポイントは実は非常に少ないのです。


そのため私はスマホからアプリを起動するのが面倒になり、提示しなくなりました。


私は以下の2つの要素を天秤にかけてポイント貯蓄の放棄に至りました。

・ポイントが貯まることによる実益
・ポイントが貯まるために費やす時間とポケットからスマホを出さなければならない手間
 

私の中で、この2つの要素を比較した結果、ポイント貯蓄を放棄した方が手間がかからず自由でいられるという結論に至ったのです。

ポイントは、カードを運営している側が自社のグループ店舗に顧客を繋ぎ止めるための仕組みです。


私もお店のポイントカードを20歳くらいから持っていましたが、考えてみると何十年も経ちますが、ポイントが大きな助けになったという記憶はほとんどありません。

カード運営側が顧客を確保するためのカードですから、カードを持つ側はわずかなポイントが「チリも積もれば」という期待感を生み出し、時間を費やしてしまうのです。


さらに言えば、会社からもらう月給さえも「ポイント」かもしれません。


月給の本質は、会社が従業員を確保するための最低限の生活費、つまり「ポイント」なのかもしれません。

今回の話は強烈なものになってしまいましたが、これはあくまでも個人の思想です。


一つの考え方として捉えていただければ幸いです。

お読みいただき、ありがとうございました!