「洋服におけるアースカラー独自問題」

 


先日、私は地味な色の洋服に対して問題提起をしたわけでありますが、それではいったいこれらの色はどういった色なのか?というと「国立競技場の座席のような配色」と思ったわけです。

後々調べてみるとこれらは「アースカラー」と呼ばれるものでした。そう私は洋服におけるアースカラーの事を言っていたのです。

あと言い忘れていたのは、これらの色は背景に溶け込むような色なので交通事故に遭いやすいのではないか?ということです。私も運転をしていて特に暗めのアースカラーは黒っぽくなるので、とても見えにくく感じる時があります。

もちろんアースカラーを着こなす人が「自分は自然が好きで自然に溶け込みたいんだ」という強い意志があり、そうしているのならば否定はできませんが、多くの人は、そうではなく単に「あまり目立ちたくないから「人に見られたくないから」「怪しまれたくないから」ということで、その色を選んでいるのではないでしょうか。

アースカラーを調べると、大地などをモチーフにした物であると言うので、もちろんこれらの色は自然に溶け込み、意思的にも自然と同化するための色であります。

東洋の文化では自然に溶け込み共存するのが良いとされますが、西洋文化の基本であるアブラハムの宗教では完全に自然と人間を区別しています。デカルトは動物さえも自然の中にある無自我な機械の様な物だと述べています。西洋的な考え方では自然の中から浮き出て人間が存在しているのです。そしてもしも、ただ自然とそこにあるだけならば、そこに主張というものは何もないのです。そういった無主張な物を人間が、わざわざ買って着るということがありますでしょうか。

もちろん先日も書いたニルヴァーナのカートコバーンのように、その首から上が金髪の白人で「売れたミュージシャンと違く、俺たちは自分なりに普段着を改造して着ているんだぜっ!」と言うならば、それも一つの信念であり、主張であり、それでも良いですが、 明らかに日本での一般人の世界はそうではないのです。

「何か目立つような部分がある服を着ると、これはやり過ぎだろう、と誰かに思われてしまう」という気持ちがどこかに発生しているのです。そしてそれは過去の学校の謎ルールを体に叩き込まれた後遺症でもあるのです。

それでは一体何の服が一番いいのかということですが、 これらの概念から考えると究極的には「コスプレ」ということになります。もちろん私はコスプレはしなくコスプレは否定も肯定もしないのですが、このような服を自由に着れるということは非常に幸せな世界だなと思うわけです。そこに心境的な制限は何もないからなのです。コスプレは主に自分がなりたいキャラクターを演じるために着るものです。

ただし一般的なコスプレの服というのは、その世界観の背景に忠実ではない素材を使っています。つまり例えば、お姫様のコスプレの服というのは、安く作ったために「お姫様風のコスプレの服」ということになっています。 遠くで見るとデザイン的には格好いいのですが近くで見ると布の素材に違和感を感じます。もしもこれが本物の中世のお姫様の服ということであれば、その服は最高に自己主張された服ということになります。

つまりそこには「こんな派手なものは着たら、誰かに何か言われるだろう」等という気持ちは一切ありません。常日頃、普段着としてファイナルファンタジーに出てくるようなキャラクターの洋服を着ててもいいわけです。なぜバーチャル的なSNSのアバターが、ものすごく派手な洋服の着せ替えができるのかと言うと、本来の人間の持つ理想が、このような洋服を着た物であり、それが現実界でできないからこそ、アバターで夢見てやろう、ということだからです。

ここまで読んだ方々の中には、「コスプレは違うだろう」と思われる人もいるかもしれませ ん。しかしここで言う私独自の「コスプレ」の意味は、非常に幅広いものであり、このコスプレには「歌手がステージで歌う時に着る派手な洋服であったり」あるいは高級なキャバクラ嬢やホストが着るような洋服であったりでもします。なぜならばこれらの洋服は日常的に着ると派手すぎて「何のコスプレ?」と聞かれてしまう場合もあるからです。

つまりここで言う「コスプレ」とは非現実的なファンタジックな服の全般ということになります。これらは主に他人に見られる事を意識した上の服であり、そこにはアースカラーの様に「自然の中に隠れてカモフラージュしよう」という気持ちは一切ありません。

自然は言わば舞台ステージであり、人間はその上に浮き出て佇むのです。

さて、こういう事を言わなければ仕方なくなるほど、それほど現代の日常的な洋服は、地味でつまらないものになってしまったのです。

もちろん洋服の色だけだったら何も思わないわけですが、 私は、これらの奥底に現代社会ならではの心が垣間見えるからこそ、その縮こまった心に対して提起しなければならなかったのです。 

そして結局のところは、アースカラーでも、アースカラーでなくても、心に胸を当てて本当に「その色の服を着たいのか?」と自分に問いた時の、そのあなた自身の心の清さ・・・それを私は知りたいだけなのでございます。

その上で皆様が、その服を着たいのならば、それはそれで良い事なのでございましょう。ニコニコ

お読みいただき有難うございました。
 

「近年の若者が着る服は、まるで「生首・生産服」だった!」

今日は一つの説を語りたいと思います。

先日普通の洋服店をまわってみたのですが、思えばここ30年から20年の間で、ものすごく地味な服の色が主流となりました。新しいのに古く見える色合いで、そして T シャツなどは体のラインが隠れるくらいにダボダボで、和服のように腕を通すところが野太いのです。

もちろんアパレル業界はユーザーに対し体型教育する権利はないので、供給する服を着るためにダイエットさせるよりも、今のままの状態で着させる方が売れるので商売上仕方ないのだと思いますが問題はその配色についてです。

配色についてはほとんどが自然の背景に溶け込むような色になっており、三原色的な色や明るいのはありません。私が20歳ぐらいやバブルの頃は、ヴェルサーチや絵柄物の服や、駅前で真ピンクのボディコンを着たお姉ちゃんが普通にチャリンコを乗ってたような光景もあったのにです。

それでは何故こんな地味な色が多くなったのかというと、単純に精神から自己主張性がなくなったからです。何か一つ目立ってしまうとアラを探されてダサいと思われてしまうので、若者の多くはそのような地味な配色を好むようになりました。

私はこのような流れになったのは一つ、バンドのニルヴァーナやグランジファッションの出現が原因としてあると考えます。 彼らは初期、お金がなかったために安い古着を改良して着ていたりしました。そしてバリバリのロックファッションでキめるガンズアンドローゼスを否定したのです。

ただニルヴァーナのカートコバーンを見てみると、普通にしていると何の職業の人だかわからなく、 ギターを持っていたとしても服が普通なのでアコースティックミュージシャンに見えます。彼自身が非常に格好良いので、はまっているのですが、日本人がカートコバーンのギラギラしてない洋服を真似しても全然普通の人になってしまうのです。

カートコバーンが発言した「ガンズがダサい」と言う意見に先入観を持ってガンズのミュージックビデオ「 WELCOME TO THE JUNGLE」を見ていると、ガンズのアクセルローズがダンスをしていて、確かにその古さからリックアストリー「Never Gonna Give You Up」を彷彿させるような古きダサさがあるのですが、 しかし形式美を保っているからこそ、つっこみとして言えるものであり、逆に新しいジャンルを確立したと言われるニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」のミュージックビデオを見てみると形式的なものはなく、ただ若者たちがカオス的に暴れているだけという見え方もできるのです。

つまりこのニルヴァーナのガンズ批判は、形式美を持たないカオスなパンク精神を持つ者が、形式美を持っているロックを否定した、という形になるので、それでは形式美を持たない表現者は自分のことを「どう言えるのか?」ということになります、

ニルヴァーナのカートコバーンが、そうだ。というわけではないのですが、この姿勢は、ある意味ではネット民のように「自分では何もしなく、何かをしてる人の目立つ部分だけを批判し、それだけに終始する」というものでもあります。

ただしカートコバーンは、あまりにも格好良い人物だったが故に、そのファッションが非常に魅力的な物になってたのですが、日本人が真似しても洋服は同じでも、首から上は「黒い髪と瞳の日本人」なので注意が必要なのです。

つまり近年では、何か特に目立ったものがあると、そこに集中してディスりが入ってしまう傾向があるので、人々は無意識に、特に目立ったようなことはせず「ダサくはないのだけど、だけど特徴のない風貌」になってしまうのです。

この洋服的な概念は、例えるならば「生首」なのです。なぜならば洋服を着ている首から下は自然に溶け込む配色であり、極端に言えばミリタリー服の様なカモフラージュ性を持つからです。そして首から上、顔面だけが肌色であり丸く上部に来るので、もう生首が宙に浮いているような物です。

もちろん映画「コマンドー」のアーノルド・シュワルツェネッガーように、顔の部分に目立たぬ様にペイントをすれば、顔面を含み全ては自然・背景に溶け込み、全身カモフラージュになるわけですが、まったく他人に存在が認知されずディスりがゼロになる代わりに「いったい何のためのファッションなんだ」「そこに何かしらの主張があるのか」と思えてもしまうのです。 

このように一時期に流行った地味な服装の時代が、もう何十年にもわたって継続するのは、ネットのディスり文化が一役を買っているのではないかとも思うのです。何かにつけて「これダサい、あれダサイ」等と、目につくものばかりがストレス解消的に安易に批判されてしまうので、 いつしか若者は、何一つのインパクトや主張性も無い、誰が来ても同じで、誰も何とも思わないような、無難な服を選ぶようになったのです。ガーン お読み頂きありがとうございました。

スカイツリー、パラリンピック仕様です。実はマークは地上の下からライトで照らして表示させてる様です。ライトの線が少し見えます。ニヤリ